「恩返し」と二宮尊徳

食品業界につとめる家訓ニストは、アメリカのスーパーの視察に出かけることがあります。

 

アメリカでは、レジを打つのがアジア系の移民。床でモップふきをしているのがメキシカン。そして、レジうちのアジア人を、経営者が監視している・・・そんな風景がありました。

 

では、日本と比べてみます。ためしに、昼過ぎに、はやっていないカラオケ屋にいってみましょう。レジはたぶんバイト。いそがしくもないので、ひとり、ふたりで回しています。でも、接客はしっかりしているし、掃除も一応はしています。なによりお金を扱っていても、パートだけに仕事をまかすというのが平和の象徴です^^;

 

たとえ、バイトの兄ちゃんでも、日本人は高い道徳心で、仕事をしていることがお分かりでしょうか? 自分の与えられた職責をまっとうすることを、日本人は善としています。しかし、これは、世界的にみると、たぐいまれな道徳観を共有していることを知っておかなくてはいけません。

 

では、「道徳」とは、なんでしょう?

そんな難しい言葉と格闘している委員長さんの相談にのっています。

 

道徳とはなんぞや?

「正しい心」と委員長さんはいいました。

 

では、何をもって、「正しい心」のか?11年度の日本JCでは、【日本人として受け継がれてきた誇り高き精神性と美意識を兼ね備えた使命感の源になるもの】と、定義していました。

 

中国でいう「徳」は、具体的には仁・義・礼・智・信の五徳や孝・悌・忠の実践として表されます。とくに天子(皇帝)の徳性によって国が安定するとしてきたことから、徳を落とす行為を嫌い、儒学の毒ともいわれる商いへの差別、労働の軽視が国を滅ぼす遠因になってしまいました。

 

江戸時代の士農工商という身分制度も、この儒教の考え方によるものです。ゴリゴリの中国の儒教を習った武士にとっては、商いや、お金の管理は、徳を失う恥ずべきこととされ、その悪習は、いまも社会にのこっている気がします

 

この難しい「徳」の概念を、二宮尊徳は、「報恩感謝」と言い現しています。二宮尊徳(にのみや たかのり/にのみや そんとく/1787年9月4日-1856年11月17日)は、薪を背負いながら本を読む姿の像で有名な江戸時代後期の農政家&思想家です。通称の「金治郎(きんじろう)」の名もよく知られている(一般的には「金次郎」と表記)。私利私欲に走るのではなく社会に貢献すれば、いずれ自らに還元されるという「報徳思想(ほうとくしそう)」を説いた人物であり、農村復興政策・農村復興政策「報徳仕法」(ほうとくしほう)の指導者として活躍した人物です。(参考文献:ウィキペディア+楽天ブックス)

 

では、「恩」とはなんでしょう?

大辞林では、恩(おん)とは、他の人から与えられた恵み、いつくしみのことと定義されています。

 

恩とは、自分のためにしてくださったこと、ひろくいえば「ありがとう」という事ではないでしょうか。

そして、そんな「ありがとう」に対しあなたは何ができますか?

 

それが恩に報いる【報恩】の思想となります。それを別の表現では恩返しといいます

 

日本JCの開発した徳パックは、子供たちと「ありがとう」を探す内容です。冒頭、「ありがとう」と感じたことを書き出してもらうワークショップをすると子供たちのペンが止まります。それだけ感謝しずらい時代に暮らしています

 

たとえば今から100年も前なら、朝ごはんを作るだけでも2~3時間はかかったのではないでしょうか?

井戸から水をくみ、薪をくめ火をたき、ご飯をたく。もっという薪を集める仕事だってあります。

 

こんなに苦労して出されるご飯を残せるでしょうか?あるいは、子供たちが「いただきます」と手をあわせるとき、「感謝」の度合いが違うはずです。現代では、電化製品が、お母さんの家事の苦労を代替えしてくれます。それだって、お米は1000年前と同じく、お百姓さんが植え、太陽と水で育つのです。

 

そんな事例を紹介していき、子供の目線に、普段気にも留めていない「感謝」をみつけていくのが、徳パックです。そしてセミナーの最後には、「感謝」に報いるためにどんなことができるのか?「未来への約束」として、宣言をしていただいています。

 

「ありがとう」という。そして「ありがとう」と言われる人間になるために、徳パックは道徳教育を広げるために、発信した全国の子供たちのための「報恩感謝」のプログラムです。

 

「恩」について、改めて整理します。恩は、すでに後漢時代の許慎の『説文解字』において、「恵(めぐみ)」という意味だと解説されていました。

 

日本でも『日本書紀』や『古語拾遺』などでも「恩」は「めぐみ」「みうつくしみ」「みいつくしみ」などの読み方がされていた。

 

ところで「めぐみ」という言葉の語源は、「菜の花が芽ぐむ」などと表現する時の「芽ぐむ」という言葉を名詞の形にしたものとされている。木や草が芽ぐむのは、冬の間は眠っていた草木の生命力が春の陽気によってはぐくまれて目覚めることによる。つまり、他の者に命を与えたり命の成長を助けることが「めぐみ」を与えることであり、恩をほどこすことなのだということなのである。その逆の立場が、めぐみを受けること、恩を受けることである、と理解されています

 

恩というのは、狭い意味では、人からさずかる恵みを指しているが、広義には、天地あるいはこの世界全ての存在からさずかる恵みも指しているのです

 

仏教では、自分が受けている恵みに気づき、それに感謝することを重視しています。キリスト教でも、神から届けられている恵みを感じることが重視されているようです。自分にめぐみが届いているのだと繰り返し意識することは、幸福感をもたらすことであり、様々な宗教で重視されています。

 

恵みを受けることは「受恩」と言うことがあり、自分がめぐみを受けていることを自覚することは「知恩」と言う。また、めぐみに報いることを「報恩」と言います。

 

恵みを受けているにもかかわらず、自分が受けている恵みに気付かないこと、恵みに感謝しないこと、恵みに報いようとしないことなどを「恩知らず」と表現します

(ウィキペディア参照)

 

恩をかえすために、盆暮れのつけとどけをし、手紙をかけ!というのが趣旨でなく、恩をかえすために、自分自身が誰かの「陰」となり、誰かの世話をやくこと。これを「お陰様で」というと考えています。

 

「一隅を照らす。これ則ち国宝なり(照于一隅此則国宝)」最澄が遺した言葉です。

 

まず、恩をしり、自分が生かされていることにきづくこと。

そして、感謝をすること

さらに、恩返しをするために、自分の家庭や、仕事をつうじ、一隅を磨きつづけること

 

それが、報恩感謝の意義だと考えました。

田川くん、納得いただけましたか^^?


徳から、二宮尊徳を通って、「報徳感謝」へ。

聖人君主だけじゃ世の中はつまらないものです。ただし、それぞれが、ちょっとずるをしたり、ちょっとさぼったとしても、ひと隅を、磨いていれば、徳溢れる社会が広がるものと夢想します。


家訓ニストが選んだ一隅は、商いを通じ、多くの方に喜んでもらうこと

そして、家訓づくりの素晴らしさを世界中の人にしってもらうことです^^


ややこしい、「徳」あるいは「恩」の概念を自分なりに考えてみました。

全国の会員会議所の委員長さん、議案だ、主旨だ、目的だっと、苛め抜かれていることでしょう。しかし、いい事業を構築するためには、そもそも論から逃げず、議論をつづけていってくださいね


「報恩感謝」

すこしは役にたったでしょうか^^ 幡谷への報恩は、コーラ1本で結構です。恩はボクにかえさず、家族に、地域に還元くださいね!