今回のブログは、先日、中津の記念館で現地調査をしてきた福沢諭吉の家訓をその生涯と共に紹介させていただきます。
天は人の上に人をつくらず
人の下に人をつくらず
福沢諭吉の著書「学問のすゝめ」の有名な一節の後に続きがあるのがご存知でしょうか?
その後には、
「人は平等ではない」と続きます
そして、平等でない「違い」は、学問によってもららされるっと諭しているのです。
学問とは机の上ばかりでなく、世を渡るのも、商売の帳面をつけるのも学問であるとも言っています
あなたは何を学び、何を実践しているでしょうか?
学問のすゝめ。~からの家訓のすゝめ^^です
そんな学問の重要さを説いた諭吉自身が、家族のために書き下ろした家訓が【にびのをしへ】となります。ここで【日々の教え】を紹介させていただきます
一、うそをつくべからず。
一、ものを拾うべからず。
一、父母に聞かずして ものを貰うべからず。
一、強情を張るべからず。
一、兄弟けんか、かたく無用。
一、人のうわさ、かたく無用。
家訓づくりの盟友・福岡JCOBの江藤さんは、この家訓を、家庭に取り入れ子供たちと実践しています。
中津に移動する道中、江藤さんからこんなエピソードを教えていただきました
家族と一緒にキャナルシティーに行った際、お店で風船を配っていたそうです。たくさんの子供が駆け寄る中、下の娘さんはじっとしていたそうです。江藤さんが、
江藤:「いかないの?」
っと聞くと、娘さんはこう言いました
娘さん:「父母に聞かずして ものを貰うべからず」
っと答えたそうです。娘さんはまだ幼稚園生。
家訓の効果、恐るべしです(ー_ー)!!
この家訓をつくった福沢諭吉は、慶応大学の創設者であり、「学問のすゝめ」等の著作を送り出した他、学者、教育者の枠に収まりきれない数々の偉業を成し遂げた偉人です。
諭吉は、天保5年12月12日(1835年1月10日)豊前中津奥平藩の士族、福沢百助の5人兄弟の末っ子として生まれています。 父が大阪に奉公していた関係で大阪で生まれるが、3歳の時に父が死去。大黒柱を失った一家は、中津(大分)に帰参しました。母・於順(おじゅん)は、親戚の家に身を寄せるような貧しい生活環境の中でも「お父さんのようになれ!」と子供に言い聞かせ、厳しい躾で遺児を育てたと言い伝えられています
のちの秀才ぶりに目がいきがちですが、諭吉の少年時代は、大阪から中津に移ったために地元の子ども達と上手くいかずイジメにあっていたそうです。またイジメが原因で、引きこもりをしていたとの記録もあり、学業の成績をパッとせず、暗く厳しいものでした。
しかし、母の教育と学問との出会いが諭吉少年を変え、そして、今につづく偉業をなしとげていくのでした。
諭吉の隠れた偉業として、大学の設立や、書籍の発刊だけでなく、朝鮮の文字「ハングル文字」を復活させた業績をご存知でしょうか?
朝鮮半島に暮らす方には、「ハングル」を日本が奪ったとの印象が強いはずですが、歴史を紐解くと、まず諭吉の尽力によってハングルが、全土に広がり、その後、日韓併合という歴史が続きます。ハングルの父は、実は福沢諭吉なのです。
ハングルの歴史は、1446年 世宋によって発明されましたが、一般には普及せず、李朝朝鮮時代になり、300年に渡って漢字を公式言語にしていたため、ハングルは忘れられた存在になります。
日本では漢字に加え、ひらがな、カタカナが発達したため、母国語を文字に起こすことは簡単です。しかし、当時の朝鮮語と漢字は全くリンクしていないために、識字率が著しく低いものでした。
この識字率の低下は、教養面だけでなく、経済の停滞などのマイナスの面が多かったようです。そして諭吉が復活させた「ハングル」は、識字率を向上を大いに助けることなります。
諭吉はハングルを研究し体系化させたうえで、留学していた学生らに手ほどきをします。のちに帰国した留学生らが、ハングルの復活をさせ文字を教え、植民地時代をへて今につづく繁栄の礎となりました。
両国にとって不幸な時代があったことも事実です。しかし、剣ではなく、ペンで両国の友情を担った偉人がいたことを、わたしたちは忘れてはいけません。
「ペンは剣よりも強し」
血気盛んな維新の英雄の中にあって、諭吉は官に仕えず、在野の立場で国の行く末を案じた諭吉は、さらにハングルの例にかぎらず、教育の重要性をとき、慶応大学も創設します。慶応の紋章は、教育は剣よりも強いとばかりに、ペンがデザインされています。
さてそんな諭吉先生は、生徒さんだけなく、ご家族にもしっかりとした教育を施しています。それが、「ひびのをしへ」と題した福沢家の家訓となります。 改めて紹介させていただきます。
一、うそをつくべからず。
一、ものを拾うべからず。
一、父母に聞かずして ものを貰うべからず。
一、強情を張るべからず。
一、兄弟けんか、かたく無用。
一、人のうわさ、かたく無用。
教育界の大家ともいえる諭吉が子供たちに伝えたかったことは、等身大のメッセージばかりでないでしょうか?
諭吉の父親・百助は、諭吉が3歳のとき急死しており、中津藩の下級武士として、苦学をするも、身分のために官職にもつけず生涯を終えたことが知られています。歴史的には光のあたらない人物ですが、諭吉の母親は、常々「お父さんのような人になれ」と諭吉を含めた子供たちを諭していたそうです。
諭吉自身、尊敬する人物の一番に父親の名前を挙げていたそうです。 本当の偉人は、諭吉でなく、諭吉を育んだお父さん、お母さんなのかもしれません・・・
「家訓」を使って、明日の諭吉を育てていくためには、言葉だけでは不十分です。諭吉の父・百助のように、生き方そのものを教訓に、背中を見せる必要があるのです。
そして、そんな大人の背中は、あなたが死んだとき、はじめて価値が問われていきます。
偉人は生まれてすぐに偉人になったわけではない
あなたの背中と家訓をもって、未来の偉人を育てましょう
天は人の上に人をつくらず。人は、教科書でなく人がつくる。
あなたの 背中で、子供たちを導き、末は博士か大臣か、はたまたお札の肖像画に育て上げてください^^
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