世界一貧しい大統領からのメッセージ

「貧乏な人とは、少ししかものを持っていない人ではなく、無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ」

 (ウルグアイ大統領 ムヒカ)

 

 

画像は、世界一貧しい大統領として有名になったウルグアイのムヒカ大統領の自宅の画像です。豪華な首相官邸をきらい今なお、郊外に家をかまえ、水道もひかず質素に生活しているそうです。

貧しいはずなのに、幸せにしか見えない大統領の生き様すべてが、混迷をふかめる現代社会を救う処方箋になるのはないでしょうか?

 

大統領は、首都モンテビデオの貧困家庭に生まれる。家畜の世話や花売りなどで家計を助けながらも、1960年代に入って極左都市ゲリラ組織ツパマロスに加入、ゲリラ活動に従事していそうです。数々の襲撃、誘拐にたずさわる中で、ムヒカは6発の銃弾を受け、4度の逮捕(そのうち2回は脱獄)を経験しています。1972年に逮捕された際には、軍事政権が終わるまで13年近く収監されており、軍事政権側の人質として扱われていました


経歴だけみると、リアル・ランボー(--〆)

でも、画像をみると好々爺ですね^^;

 

ムヒカ大統領の提唱する概念は、

【レス・イズ・モア】 (少ないことは、豊かだ)

っと言い換えることができそうです。って、 豊かさって何でしょう?

 

埼玉化する日本について考えていくと、結局、埼玉化をのぞむ消費者のマインドが、金太郎あめのような街をつくってしまうことに気が付きました 

 

いま、日本を支配している【豊かさ】とは、経済的な側面ばかりです


豊かさを手に入れるため、自分の時間をけずり、給料を手に入れ、たくさんの家電、いい車、夢のマイホーム。でも、そのすべてを手に入れても、ダイソンの掃除機も欲しいし、新しいモバイルも欲しい・・・ っと

 

結局、欲というものには、限りなどなく、経済的な豊かさをおえば追うほど、「ある」ものでなく「ない」ものに心が執着していくものなのではないでしょうか?

 

現代にくらす我々にとって、「ない」ことを豊かに感じる心の工夫が求められています。 だから、レスイズモアなのです。

 

たとえば、「朝ごはんを一緒にたべる」(王貞治 家訓)。

こんなあたり前の風景が、レスイズモア、豊かだと感じませんか?

一日の始まりに、みんながそろってご飯をたべる。ただそれだけのことですが、これは豊かです^^

 

最近の研究では、安心感や、気持ちよさをつかさどる「セレトニン」という物質は、腸から出ているという報告がされました。飯を食うという事は、栄養をいれるだけでなく、安らぎをあなたに約束するものなのです。そして、その幸せを家族で共有してください。 

 

日本のコトワザには、

「起きて半畳、寝て一畳 天下をとっても2合半」

という言葉があります。

 

人間が身体で占有できる範囲、そして胃袋にはいる許容量は、そんなもの・・・だったら、手に入れるばかりでなく、与えることに豊かさを感じてみませんか?

 

人生は、手に入れたものでなく、与えたもので評価が決まります。家訓づくりで紹介する家訓をもった偉人達の多くは、厳しい生活環境のなかで育ったことがわかります。

 

トヨタグループの豊田佐吉、松下幸之助、福沢諭吉・・・ しかし共通していえるのは、貧しい中でも、親からちゃんと「与えられていた」事実です。それは、勉強机でも、子供部屋でもなく、人生で守らなくてはいけない指針、だから「家訓」なのです。

 

レスイズモア(少ないことは、豊かだ)

あなたなりの「豊かさ」を家訓づくりプログラムでみつけてください^^ なんと受講料、そして家訓二ストへのギャラもタダ(*_*) ゆ、豊かだっ!

 

 

最後にムヒカ大統領が、リオでひらかれた国際環境会議で行った演説を紹介させていただきます

レスイズモア。ないことが豊かだ

 

金太郎あめのように、埼玉化する日本にあって、ムヒカ大統領のスピーチには金言があふれています。豊かさを取り戻すため、立ち戻る場所は、ロードサイドのマツキヨでなく、家訓のなかにあるちょっと昔の風景です^^

 

出典;

http://whats.be/2180

 

 

 

会場にお越しの政府や代表のみなさま、ありがとうございます。

 

ここに招待いただいたブラジルとディルマ・ルセフ大統領に感謝いたします。私の前に、ここに立って演説した快きプレゼンテーターのみなさまにも感謝いたします。国を代表する者同士、人類が必要であろう国同士の決議を議決しなければならない素直な志をここで表現しているのだと思います。

 

しかし、頭の中にある厳しい疑問を声に出させてください。午後からずっと話されていたことは持続可能な発展と世界の貧困をなくすことでした。私たちの本音は何なのでしょうか?現在の裕福な国々の発展と消費モデルを真似することでしょうか?

 

質問をさせてください:ドイツ人が一世帯で持つ車と同じ数の車をインド人が持てばこの惑星はどうなるのでしょうか。

 

息するための酸素がどれくらい残るのでしょうか。同じ質問を別の言い方ですると、西洋の富裕社会が持つ同じ傲慢な消費を世界の70億〜80億人の人ができるほどの原料がこの地球にあるのでしょうか?可能ですか?それとも別の議論をしなければならないのでしょうか?

なぜ私たちはこのような社会を作ってしまったのですか?

 

マーケットエコノミーの子供、資本主義の子供たち、即ち私たちが間違いなくこの無限の消費と発展を求める社会を作って来たのです。マーケット経済がマーケット社会を造り、このグローバリゼーションが世界のあちこちまで原料を探し求める社会にしたのではないでしょうか。

 

私たちがグローバリゼーションをコントロールしていますか?あるいはグローバリゼーションが私たちをコントロールしているのではないでしょうか?

このような残酷な競争で成り立つ消費主義社会で「みんなの世界を良くしていこう」というような共存共栄な議論はできるのでしょうか?どこまでが仲間でどこからがライバルなのですか?

 

このようなことを言うのはこのイベントの重要性を批判するためのものではありません。その逆です。我々の前に立つ巨大な危機問題は環境危機ではありません、政治的な危機問題なのです。

現代に至っては、人類が作ったこの大きな勢力をコントロールしきれていません。逆に、人類がこの消費社会にコントロールされているのです。私たちは発展するために生まれてきているわけではありません。幸せになるためにこの地球にやってきたのです。人生は短いし、すぐ目の前を過ぎてしまいます。命よりも高価なものは存在しません。

 

ハイパー消費が世界を壊しているのにも関わらず、高価な商品やライフスタイルのために人生を放り出しているのです。消費が社会のモーターの世界では私たちは消費をひたすら早く多くしなくてはなりません。消費が止まれば経済が麻痺し、経済が麻痺すれば不況のお化けがみんなの前に現れるのです。

 

このハイパー消費を続けるためには商品の寿命を縮め、できるだけ多く売らなければなりません。ということは、10万時間持つ電球を作れるのに、1000時間しか持たない電球しか売ってはいけない社会にいるのです!そんな長く持つ電球はマーケットに良くないので作ってはいけないのです。人がもっと働くため、もっと売るために「使い捨ての社会」を続けなければならないのです。悪循環の中にいるのにお気づきでしょうか。これはまぎれも無く政治問題ですし、この問題を別の解決の道に私たち首脳は世界を導かなければなりません。

 

石器時代に戻れとは言っていません。マーケットをまたコントロールしなければならないと言っているのです。私の謙虚な考え方では、これは政治問題です。

 

昔の賢明な方々、セネカやアイマラ民族までこんなことを言っています

「貧乏なひととは、少ししかものを持っていない人ではなく、無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ」

これはこの議論にとって文化的なキーポイントだと思います。

 

国の代表者としてリオ会議の決議や会合にそういう気持ちで参加しています。私のスピーチの中には耳が痛くなるような言葉がけっこうあると思いますが、みなさんには水源危機と環境危機が問題源でないことを分かってほしいのです。

 

根本的な問題は私たちが実行した社会モデルなのです。そして、改めて見直さなければならないのは私たちの生活スタイルだということ。

 

私は環境資源に恵まれている小さな国の代表です。私の国には300万人ほどの国民しかいません。でも、世界でもっとも美味しい1300万頭の牛が私の国にはあります。ヤギも800万から1000万頭ほどいます。私の国は食べ物の輸出国です。こんな小さい国なのに領土の90%が資源豊富なのです。

 

私の同志である労働者たちは、8時間労働を成立させるために戦いました。そして今では、6時間労働を獲得した人もいます。しかしながら、6時間労働になった人たちは別の仕事もしており、結局は以前よりも長時間働いています。なぜか?バイク、車、などのリポ払いやローンを支払わないといけないのです。毎月2倍働き、ローンを払って行ったら、いつの間にか私のような老人になっているのです。私と同じく、幸福な人生が目の前を一瞬で過ぎてしまいます。

 

そして自分にこんな質問を投げかけます:これが人類の運命なのか?私の言っていることはとてもシンプルなものですよ:発展は幸福を阻害するものであってはいけないのです。発展は人類に幸福をもたらすものでなくてはなりません。愛情や人間関係、子どもを育てること、友達を持つこと、そして必要最低限のものを持つこと。これらをもたらすべきなのです。

 

幸福が私たちのもっとも大切なものだからです。環境のために戦うのであれば、人類の幸福こそが環境の一番大切な要素であるということを覚えておかなくてはなりません。

 

ありがとうございました。