「家訓づくり」を推し進め、世界を平和に導く家訓二ストです
今回のブログでは、家訓づくりだけでは解決できないハードの問題をとりあげたいと思います
家庭と社会をかえる万能薬「家訓づくり」ですが、これはソフトです。
また、こどもむけのコンテンツとして開発した「偉人伝」や「徳パック」。これもソフト、あるいはカリキュラムの1つです
日本JCでは、これまでも多くのコンテンツを送り出してきましたが、受け手となる教育システムに欠陥があれば、すくった水もダダ漏れになってしまうのではないでしょうか?
これまで、JCでは、硬直化した教育行政に風穴をあけるため、熟議の手法をつかったコミュニケーションや、あるいは教育再生会議を地域で立ち上げる運動を展開しています
また、行政サイドでも、地域で学校をささえるコミュニティースクールの推進なども実施しています。子供たちのため、ひいては、地域のために、関係者の取組は様々な角度から始まっています
家訓二ストの考える教育システムの変革のキーワードは、【地蔵効果】です
。この概念は、教育評論家の松居和さんの提唱している理論です。
【地蔵効果】とは、子供たちの視線の中におじいちゃん、おばあちゃんがいるだけで、不思議な調和が生まれるっという理論です。これは、老齢の園長先生が退任したあと、荒れてしまった保育園を立て直すために、園長先生を園内にいてもらった処、子供たちに落ち着きが戻ったという実話を元にしています
おじいちゃん、おばあちゃんは、いつも優しい。
そして、たとえぼけちゃっても、ニコニコしているだけで、子供に安心感が付与されるそうです
この老人ホームと保育所の併設には、子供たちへのメリットに加え、「老人」とひとくくりにされてしまう高齢者の皆様のやりがいを付与できる効果も期待できます
ひとの心に薬はききません。
ひとの心に作用するのは、「必要とされる」ことなのではないでしょうか?
子供たちが減り続け、地域にあった小学校も統廃合が進んでいます
そんな場所に、用地取得にヒイヒイいってる老人ホームと、保育園を建てることって一石三鳥の取組となるはずです。
ひとは、物ではない。宝物を預かるようにピカピカにされるより
こども達にとっては、いつも優しく、ときにゲンコツをくらうおじいちゃん、おばあちゃんの存在って、お互いにとって素敵な関係になるはずです
家訓二ストが暮らした水戸の街にも、昔は駄菓子屋さんがあり、そこには店番をするおばあちゃんがいました。やっているのか?やっていないのか?あるいは、寝ているのか?そもそも息をしているのか!?
地蔵のように、駄菓子屋に鎮座するおばあちゃんは、ぼくらのコミュニティーの真ん中にいる。そんな時代がつい最近までありました。
当時は老人ホームなんてなかったけれど、地域で、駄菓子屋というおばあちゃんの「役割」をつくり、1本10円のうまい棒を通じ、コミュニケーションを図っていたのかもしれません。
理屈はあとでつければいい!
【地蔵効果】は、社会に平穏をとりもどすキーワードだと確信しています。
小難しいことをいっても、猿から人間に進化して10万年。そのほとんどの時間、人類は、おじいちゃん、おばあちゃんと暮らしてきたのです。
アフリカでは、「老人の死は図書館が1つなくなること」とのコトワザがあるそうです
現代日本では、老人介護という言葉をつかうと、金くい虫みたいな扱いとなり、社会全体でコストをどう分散させるか?そんな議論ばかりが先行します。
おじいちゃん、おばあちゃんは、社会の財産です。この財産を、おなじく未来の担う子供たちに振り分けることって、とっても自然な発想だと家訓二ストは考えます。
現在、9割以上の家に家訓がなく、意識しないとおじいちゃん、おばあちゃんの知恵が継承できない時代に突入しています。そして、本来、家訓なんてなくても、おじいちゃんの言葉、おばあちゃんの背中が、生きる中での指標になっているべきなのです。
そして、人生を生きる中で必ず立ち会わなくてはいけない「死」という問題にも、身近に「死」を抱えた高齢者の姿に子供たちは多くを学ぶはずです。
学校の授業、とくに教科書に書いてあることに、なにの意味があるのか?
命の授業なんかしなくても、よくしてくれたおじいちゃんが死んじゃったりしたら、子供は、なにかを感じ、そして大人への階段を1つ登ってくれるでしょう
ひとは、ひとでしか学べない。コストの面でも、もちろん効果の面でも、家訓二ストは、いいことずくめの老人ホームと、保育園の併設を強く提唱していきます
このブログにビビっときた関係者の皆様、ご自由にパクってくださいね^^
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