阪神・淡路大震災から20年・・・

経験は伝えることで、教訓となる。


阪神・淡路大震災から20年目の節目にブログを更新させていただきました


当時、幡谷は大学生。
父方の親戚がなくなったこともあり、電車をのりつぎ、神戸まで伺い
被災後の街を歩いた経験があります


あの時の光景は忘れられません。。。
そして規模は違えど、私自身が暮らす水戸の街に、大きな地震がくるなんて。。。


人間万事塞翁が馬

多くの人命を失った経験が、伝えられ教訓になったのでしょうか?


 

平成27年1月17日。

今日は、阪神淡路大震災から20年目の節目の日となります。あの震災から我々は何を感じ、そして何を教訓として遺してきたのでしょう

 

直下型の地震となった阪神大震災では、死因の大多数が圧死でした。

この時のポイントは、救助のために、いかに早く現地入りするか?

発災後の1分1秒は、命を救う時間です。このことを前提として、当時の救助体制を確認していきましょう

 

発災は朝の5時46分。その後の関係者の起動を紹介します。

 

5時56分 - 伊丹市長・松下勉が伊丹市役所に登庁。

6時 - 北淡町長・小久保正雄が町役場に登庁。

6時35分 - 神戸市長・笹山幸俊が神戸市役所へ登庁。

6時50分 - 兵庫県副知事・芦尾長司が県庁へ登庁。

7時 - 芦屋市長・北村春江が市役所へ登庁する等、県内の各市町長が各市町役場へ続々と登庁。

8時10分 - 陸自第3師団所属第3特科連隊から兵庫県消防交通安全課課長補佐・野口一行の元へ 災害派遣出動の確認の電話が入る。

8時20分 - 貝原知事、2時間30分遅れで県庁へ登庁(車が迎えに来るまで自宅待機)。

9時 - 小久保・北淡町長が県民局を通じて自衛隊の出動を要請。同時刻、松下・伊丹市長が 陸自中部方面総監部に救援を要請。

9時5分 - 国土庁防災局が兵庫県総務部に自衛隊派遣の要請を行うよう通達。

9時30分 - 神戸市が県に自衛隊出動を要請。

兵庫県から自衛隊への災害派遣要請を待たずに直接自衛隊へ派遣要請を行う市町村が続出。

10時 - 野口課長補佐が陸自第3特科連隊からの「この連絡を以って派遣要請が有ったと 認識して良いか」と言う電話を受け「宜しくお願いします」と回答。これが兵庫県から 陸上自衛隊への正式な災害派遣出動要請となる。

 

 

自衛隊は、生い立ちの不幸もあり、現地からの出動要請がない限り部隊を動かすことが出来ない組織です。7時前には、出動にそなえ準備ができていましたが、実際の出動は10時になりました。

しかも、出動要請は、県知事からでなく、消防署の課長補佐の独断で救援部隊が動くことになりました・・・

 

また、部隊が被災地に移動する際、高速道路の料金所で支払ができず到着が遅れたことも報道されています。っていうか、そのぐらい機転をきかして・・・でも、そのジャッジができないのが、『お役所』仕事なのでしょう

 

また震源から遠く離れた東京でも、危機管理体制の不備が露わになります。

当時、東京の震度は3、首相だったのは、社会党の村山総理です。朝の早い?総理は、地震で目をさまし、テレビをつけますが、激震地の震度の掲載はありませんでした。念のため、村山総理は京都の知人に電話をかけ、友人からは「こっちは大丈夫だ・・・」のコメントを聞いてしまいます

 

その後、総理は朝ごはんを食べながら、テレビの中継に目を奪われます

阪神高速が倒れ、街はくずれ、何万という人命が奪われていくことを知ったのです。

一国の総理の情報源が、テレビと友人って・・・

 

これは、自衛隊の出動養成が遅れた、貝原知事にも言えることで、当時の日本には危機管理という概念さえありませんでした。知事公舎から県庁までは4kmの道のり。この道を歩かずに公用車にのって移動したことで2時間半の時間が奪われています。これも1つの管理ミスの典型例です。

 

その後、村山総理から、橋本総理へと政権が変わり、危機管理についも24時間体制の危機管理センターが立ち上がりました。また緊急時のマニュアルも整備され、先の東日本大震災の発災時に役立ったといわれています

 

 

経験は伝えることで教訓になる

 

幾多の悲劇、そして教訓をのこした阪神淡路大震災にあって、未だ納得いかない事実を紹介させていただきます。さて、この喜劇の教訓はなんでしょう?

 

阪神淡路大震災発生時、兵庫県からの自衛隊派遣要請を知事が躊躇していたため消防課長補佐が独断で行いました。名前は野口さんです。その後、淡路県民局企画調整部に転出らしいのですがこれは左遷とも言われています・・・

 

えっ左遷!?

 

高速道路の料金所で、支払を求めた料金所のおじさん。その後の消息は確認できませんでしたが、懲罰の対象にはなっていないでしょう

反対に、機転をきかせ、知事にかわって出動要請をおこない、結果、命をすくった英雄、野口さんは左遷。しかし震災後のインタビューでは、「悔いはないと!」と発言されていました

 

経験は、伝えることで教訓となる・・・

 

しかし、お役所の論理のまま教訓としてしまうと、危機が起こった際にも「機転はきかせないこと」「判断はしない」「上からの指示をまつ」そんなマインドを育ててしまうことになるのではないでしょうか?

 

阪神淡路大震災、そして東日本大震災。2つの震災から学べる教訓は1つ

「お天道様はみている」という教訓です

 

自衛隊の到着は遅れたが、多くの人命は地域の人々の互助によって命が救われています。また、身ぐるみはがされた住民のため日本銀行神戸支店では通帳がなくても少額のお金を貸し出しました。支店長も戻ってこないことを想定した支出でしたが、このお金もちゃんと返金されたそうです。

 

正義の人、野口さんに限らず、ギリギリの状況でこそ、人は人間性を問われます。「お天道様はみている」そんな素朴な価値観がある限り、この後、列島を様々な災害が襲っても、そのたびに強く、そしてしなやかに成長できる

・・それが日本人です^^

 

多少、ごじゃっぺがあっても、それは直せばいいこと

非常時の一番の課題は自分の心をつよくもつことでしょう。

 

被災後、阪神、淡路は強い地域になりました。

同じく、岩手、宮城、福島。そして茨城、千葉・・・被災した地域がより強く成長すること、そしてこの震災で心を痛めた全ての人が強い心を持てることを祈念します