告発!明治維新  第一弾 ~歴史は勝者によって作られる~

画像:錦の御旗・・・
画像:錦の御旗・・・

歴史は勝者によって作られるもの。

 

つまり今、通説とされる「歴史」は、勝者によってねつ造された都合のいい歴史です。

たとえば、大東亜戦争後のGHQによる言論統制。戦後70年でようやくその嘘と向き合うムードになっています。近年では、原子力をめぐる報道でも、さまざまなデマや、意図的に隠された情報が問題になりました。

 

「正義」は常に控えめです。そして、深慮深く見守らないと、偽りの正義を振りかざす悪者に騙されてしまいます。

 

先週、二本松JCさまで家訓づくりのセミナーを実施させていただきました。二本松は、幕末に辛酸をなめた会津藩ゆかりの地。おなじく、維新の魁といわれながら、不遇の身を味わった水戸藩ゆかりの家訓ニストが、燃えないわけにはいきません!っということで、突然ですが、辛酸をなめた先祖の汚名をはらし、明治維新の様々な不正を暴き、名誉回復をしてみます。

 

明治維新後、政権をとった薩摩長州を中心にした新政府は、西欧列強に対抗するため、様々な施策を打ち出しました。全体として、その業績は素晴らしいものでしたが、全部が全部良かったのか?といえば、違います。

 

歴史は勝者がつくるもの。

徳川家がおさめた江戸時代を悪い時代だったとして、虚構の城をきづいた新政府の嘘について検証してみましょう

 

下記に代表的な、「嘘」を告発していきます。

 

通説:農民は搾取される対象であり、明治維新によって解放され豊かになった

真実:飢饉の発生がなくなったことは、誇るべき実績ですが、これは、食糧が100%自給されていたものが、鎖国をやめたことで、輸入できるようになったこと、そしてリン鉱石を中心にした肥料が出回るようになり、生産量が増大したからだと考えられます。また、厳しい年貢におわれた・・・というのも誤解で、明治にはいり、納税方法が、米から、現金に代わったことで、現金収入のもたない多くの農家が、土地を手放し、かえって土地や、農村の荒廃を招きました。あわせて、徴兵制がひかれたことで、免除されていた労務や、死の危険をも背負い込むことになりました・・・ ふんだりけったりだと思いませんか?

 

通説:江戸時代は封建主義で、遅れた時代だ!

真実:江戸時代は徳川家による独裁政治ではなく、各国(藩)ごとに大幅な自治が認められた連邦国家でした。そのことで、地方の文化はさかえ、特産物の開発や文化的な交流が進みました。過疎化がすすみ、江戸時代より人口の減ってしまった地域がある現状を、進化といえるのでしょうか? 江戸時代の行政は、合理的なものであったことは、300年間近く、平和を保ったというだけでも証明できます。ちなみに現在は維新より160年。戦争後からカウントすると70年しかたっていません<(`^´)>

 

通説:そうはいっても、差別がひどかったのでは?

真実:身分制度が固定し、男女差別もひどい・・・というのが通説ですが、これも誤解です。江戸時代、確かに身分は固定していましたが、様々な、抜け道があり、実質は、能力社会でした。そうでないと300年も持ちません(*_*)。たとえば、商人の存在、これは身1つで出世できる一番方法です。多くの農村で、寺子屋などが設けられたのも、農家の子息であっても、読み書きを習得し、商人のもの丁稚(でっち)として仕えることで、商人として成功する可能性があったからなのです。また、武家になることも、株の売買によって可能な道でした事実、勝海舟の祖父は金貸しの商人だったものを、株を買い武家になったのです。また、武家階級の中でも、勘定方は、読み書きソロバンに特に秀でたものでないと務まらず、身分をとわない登用が行われていました。これは完全な実力社会であったことを示しています。まさに今の世の中と変わらぬ社会です。ちなみに、夫婦にとって耳の痛い「離婚」についても男尊女卑は、今よりひどいイメージがありますが、女房からの離婚の申し立ても認められており、公職につけない点以外は、同時期の西欧の女性よりも恵まれた社会生活を営んでいたことが想像されます。

 

通説:社会的弱者の救済までは・・・

真実:江戸時代の見事なところは、障害をかかえた、いわゆる社会的弱者への施策もほどこされていた点です。会津藩では、世界最古といわれる公的年金が整備された他、盲目のひとには無税の特権が与えられていました。このことで、才覚のある者は、金貸しを営むようになります。保護でなく才覚にあわせ、チャンスを与えていたのが素晴らしい点です。落語などで、盲目の親方?が支払を迫りに来るシーンなどを描いているように、江戸時代には、盲目の方の金貸しが、一般的な風景であったと考えられます。そしてこのことが、勝海舟の祖父の成功につながるのです。つまり障害者であっても、孫の代には、日本を動かす大政治を生み出せるシステムが江戸には存在しました。日本の多様性ってはんぱないっす

 

ねっ?ひどくなったのは、むしろ明治維新後じゃないですか!?(*_*)

そして、この隠ぺい体質は、維新の根幹にもさかのぼります。

 

通説:薩摩・長州に対し、天皇から密勅が下り、倒幕の命令が下され、明治維新が始まった

真実?:討幕の密勅は、「詔」の字で始まる詔書の形式をとっている。朝廷が政治的権限を失って久しい幕末においても、詔書を発するには以下の手続きを経なければならなかった。 

①天皇は、作成された原案を承認すれば、自らの手で日付の一字を記入する(御画日)。

②摂政・関白は、写しが送られてくると朝廷会議を開催して検討し、妥当と決すれば施行を奏上する。

③天皇は、可の一字を記入して許可する(御画可)。

しかし、討幕の密勅は明治天皇の御画日も御画可も欠き、摂政二条斉敬の手も経ていないものであった。二条斉敬は慶喜の従兄で親徳川派だったため、密勅の内容を知ればこれを許さなかったと思われる。後に正親町三条実愛は、密勅は二条摂政にも賀陽宮朝彦親王らにも極秘で、自分と中御門経之・中山忠能・岩倉具視だけが知っていたと証言している。また正親町三条によれば、密勅は綸旨であるという。詔書と比べて手続きの簡易な綸旨は、天皇に近侍する者がその意を受けてこれを伝える奉書形式の文書で、文章は「~という天皇のご命令です」と伝聞の形をとる。だが、密勅の文章は、天皇が自ら直接命令する詔書の形式であり、伝聞の形をとっていない。

 

 このように密勅は極めて異例の形式であるため、いまでは、偽勅説が有力となっている・・・

 

偽勅説!? 

つまり倒幕を成功させ、時代を寝取った明治新政府は、最も大事な勅(天皇の御心)を操り、「正義」を偽装したのです。教科書では、倒幕の密勅が下されあと、鳥羽伏見の戦い時、「錦の御旗」が振りかざされたことで、徳川家が朝敵となり、徳川慶喜は、前線にもたたず敵前逃亡・・・と記載されています。しかし、勅が嘘であったのなら、「正義」は逆です。まして、勅がでた瞬間に、錦の御旗が掲げられる!?というのは出来すぎのシナリオ。これは下級の公家であった岩倉具視の一世一代のパフォーマンスで、偽勅にあわせて、旗まで発注しておいたというのが真実なのでしょう

 

「正義」は常に控えめです。そして、深慮深く見守らないと、偽りの正義を振りかざす悪者に騙されてしまいます。

 

告発明治維新シリーズ第一弾はここまで、第二弾は、会津藩・松平容保だけがしる本当の「勅」の意味。そして、第三弾は、負けたことで日本を救った水戸徳川家の英断と家訓を執筆予定です。乞うご期待^^

 

 

長州・山口県以外の皆様、お楽しみに^^;

ちなみに薩摩の皆様は、西南戦争がおこり、新政府に裏切られるので、ぼくらの仲間です^^