会津藩の家訓と松平容保公の忠義 今暴かれる145年目の真実とは?

画像:会津の銘酒と安達太良山
画像:会津の銘酒と安達太良山

歴史は勝者によってつくられる。

 

告発!明治維新シリーズの第二弾は、会津藩の最後の藩主となった松平容保の「正義」をご紹介させていただきます。

あなたが感じる正義に従って、どちらに「真(まこと)」があるか判断ください。

 

会津藩の歴史は、保科正之から始まります。

 

藩祖である正之は、徳川家康の孫。そして二代将軍秀忠の庶子として生まれました。しかし正室や側室でない女性から生まれたことで、養子にだされたものの、その能力を高くかわれ、家光の計らいで、大名となり、以後会津に赴任してからは、善政をひき、会津の発展の基礎をつくったほか、自らを取り立てた家康、家光への恩に報いるべく、「家訓(かきん)15カ条」を後世に遺し、これを藩是(はんぜ)とし、事あるときは、これをよりどころとし様々な決断をしました。 

 

一、大君の儀、一心大切に忠勤に励み、他国の例をもって自ら処るべからず。若し二心を懐かば、すなわち、我が子孫にあらず 面々決して従うべからず。

一、武備はおこたるべからず。士を選ぶを本とすべし 上下の分を乱るべからず 

一、兄をうやまい、弟を愛すべし

一、婦人女子の言 一切聞くべからず

一、主をおもんじ、法を畏るべし

一、家中は風儀をはげむべし

一、賄(まかない)をおこない 媚(こび)を もとむべからず

一、面々 依怙贔屓(えこひいいき)すべからず

一、士をえらぶには便辟便侫(こびへつらって人の機嫌をとるもの口先がうまくて誠意がない)の者をとるべからず

一、賞罰は 家老のほか これに参加すべからず もし位を出ずる者あらば これを厳格にすべし。

一、近侍のものをして人の善悪を告げしむべからず。

一、政事は利害を持って道理をまぐるべからず。評議は私意をはさみ人言を拒ぐべらず。思うところを蔵せずもってこれを争うそうべし はなはだ相争うといえども我意をかいすべからず

一、法を犯すものは ゆるす べからず

一、社倉は民のためにこれをおく永利のためのものなり 歳餓えればすなわち発出してこれを救うべしこれを他用すべからず

一、若し志をうしない遊楽をこのみ馳奢をいたし土民をしてその所を失わしめばすなわち何の面目あって封印を戴き土地を領せんや必ず上表蟄居すべし

 

右15件の旨 堅くこれを相守り以往もって同職の者に申し伝うべきものなり 寛文8年戊申4月11日

 

そして、正之から数え、9代目、陸奥の国会津藩の最後の藩主となったのが、今回ご紹介する松平容保です。

 

家訓となった藩是は、いまも会津に暮らす人々に宿る愚直な人柄を連想させるものです。

そして、藩是にある通り、大君(家康)への忠義を第一義とし、他国が何と言おうが、忠義をつらぬけ!と指示しています。なおかつ、二君(迷うような時)があれば、わたしの子孫ではない!ともまで言っています。

 

幕末の混乱期、容保はこの藩是に従い京都守護職に就任。以後、瓦解していく徳川政権のなか、会津藩は新政府に対し徹底抗戦を貫き、江戸城無血開城後は、新政府軍の標的になり、鶴ヶ島城での市街戦に巻きこまれます。結果、多くの藩士、領民が戦禍に巻き込まれ、会津では白虎隊が、二本松では少年隊が、憤死し、今なお悲劇とし語り継がれています。

 

勝者によって作られた歴史では、松平容保は、時代の機先をよめない政治家とされています。また徹底抗戦を選んだ会津藩は、新政府に目の敵にされました。県庁所在地は、福島市に移転。そして藩士は津軽や北海道に強制移住を強いられる屈辱までうけています。

 

しかし、容保が、貫いた「正義」には、正史には記されない本当の忠義があふれていました

 

容保の死から10年が経過した明治35年前後、遺品の中から竹筒が発見されました。

この筒には、歴史をかえる1つの手紙が隠されていました。明治天皇の父、孝明天皇の手紙(ご宸翰)です。この手紙には、

「堂上、暴論をつらね、不正の処置増長につき、痛心堪え難く、内命を下せしところ、速やかに領掌し、憂患をはらってくれ、朕の存念貫徹の段、全くその方の忠誠、深く感悦の余り、右一箱これを遣わすものなり」と記されています。

 

意味としては「堂上が、乱暴な意見を連ねて、不正の行いも増え、心の痛みに耐えがたい。内々の命を下したところ、速やかにわかってくれ、憂いを払い私の思っていることを貫いてくれた。全くその方の忠誠に深く感悦し、右一箱を遣わすものなり」 

 

当時、藩主であったとしても天皇と会うことなどありえない時代です。しかし、この手紙を読むと、孝明天皇が容保の忠誠に感謝し、心をよせている様子がわかります。つまり、明治の激動の前夜、容保こそが、尊王の使徒であり、この時点では長州・薩摩が乱暴を働くやっかいものであったことがわかります。

 

前回のブログでは、「錦の御旗」といわれたパフォーマンスは、偽勅(いつわりの天皇の命令)であったことを紹介させていただきました。天皇の御心が、会津・容保にあったのか?あるいは、新政府側にあったのか?手紙と、偽勅を比較すれば一目瞭然です。

 

そして容保は、偽勅であったことは百も承知であったことでしょう。なぜなら天皇の本心を秘めた手紙をもっていたのだから・・・手紙をみせれば、朝敵(天皇の敵)にならずに住んだばかりか、新政府での要職につくことも可能であったでしょう。しかし容保の人間的な凄さは、天皇からの手紙を小さな竹筒を首から提げて終生肌身離さず、そしてその中身を誰にもみせなかったこと、そして、この手紙を政治的な駆け引きに使わなかったことです。

 

偽の勅を操り新しい時代を寝取った新政府の不忠に比べ、容保は、家訓の言いつけを守り、滅びゆく将軍家と運命を共にしました。しかし、終生、肌身はなさず首から下げた孝明天皇の手紙(ご宸翰)は、会津藩の正義と忠誠を永遠に伝えています。

 

歴史は勝者によって作られるもの、しかし誰を勝者とみるかで、歴史の見方は、変えられます。

 

ちなみに、容保の血筋をたどると、もう1つの歴史がみえてきます。

冒頭の保科正之の血統のとだえだ会津藩では、水戸藩より養子をむかえています。つまり容保と、最後の将軍となった慶喜は、ひ孫同士の関係となります。また現在もつづく徳川宗家は、容保の血筋です。

そして、容保の孫は、大正天皇の次男三笠宮様と結婚されています。おなじく慶喜の孫も、宮家である有栖川家に嫁いでいます。普通に考えて朝敵である家から、嫁がせるでしょうか?ぼくは、この婚姻には、天皇家の強い強いメッセージを感じます。

 

本当の正義とはなんでしょう?

そして、歴史の勝者は誰でしょう?

 

明治維新や、大東亜戦争など、歴史が変わることはありませんが、見方ならば変えられます。家訓は、はるか先祖からつづく言い伝え、「勝者」に騙されないための1つの知恵なのかもしれません。

 

歴史は勝者によってつくられる。しかし、誰が勝者なのか?それはあなたが決めてください。

 「正義」は常に控えめです。そして、深慮深く見守らないと、偽りの正義を振りかざす悪者に騙されてしまいます。

 

温故知新。古きをたずねて新しきをしる。

歴史を学ぶことは、過去でなく未来を学ぶことです。松平容保公の生き様は、多くの学びを現代に届けてくれます^^

 

告発、明治維新シリーズ。誰に告発してるかわかりませんが、最終回は、水戸徳川家の家訓と、日本を救った敗者とは?をお送りします。

まってろ長州っ おまえの嘘は御見通しだっ(ー_ー)!!

 

 

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コメント: 5
  • #1

    歴史マニア (金曜日, 30 1月 2015 22:20)

    今、BSTBSで保科正之の特集をやっていますよ。正之の特集は何度見ても面白いですね。ぜひこの人を大河ドラマの主人公に。

  • #2

    幡谷哲太郎 (土曜日, 31 1月 2015 08:44)

    →歴史マニアさん
    こめんとありがとうございます。特集は見させていただきました^^ 大河の影響力はすごいものがあり、八重の桜の時も、正直、「だれ?」という印象でしたが、会津藩全体のイメージをアップさせた効果がありました。

    今後の大河には、正之はもちろん、同時代をいきた光圀公を推薦したいものです^^

  • #3

    松下 定信 (月曜日, 17 9月 2018 10:44)

    特にが幕末、明治時代に興味を持ち、歴史を。勉強しております、最近は勝ち組ではなく、負けた側の立場に立ち歴史を紐どいております。ひとつ、疑問が残りますが、なぜ孝明天皇は新政府軍に対して、容保を討つなとは言わなかったのでしょうか?合図を討つなとは?

  • #4

    家訓二スト (月曜日, 17 9月 2018 18:52)

    →松下定信さま
    メッセージありがとうございます。

    ご質問の点は、まさに物いえぬ敗者側の視点にたった一番の疑問点だと思います。家訓二ストなりの見解では、孝明天皇の死期にすべての答えが詰まっています。まだ36歳、働き盛りの孝明天皇さまが崩御されるのが慶應2年の年末。そして、慶應3年が、江戸幕府の事実上の最期の年となり、慶應4年は、明治元年に重なっていきます

    この権威の空白の期間に、朝敵だった長州がなんと若い明治天皇さまを担ぎ出し、薩摩藩と内々に手を握ることで、明治維新という革命が成功することとなりました。あまりにも薩長にとって都合のいい孝明天皇さまの崩御は、昔から議論をよんでおり、暗殺説、そして明治天皇さまの替え玉説まで登場するほどのターニングポイントとなりました

    疑惑の是非はともかく、会津の容保公しかり、水戸の徳川慶喜公しかり、本物の尊王家は、悪貨に凌駕されてしまったのは間違いがありません。

    質問につい熱くなってしまいましたがまだまだ語り足りない感じです( `ー´)ノ

  • #5

    家訓二スト (月曜日, 17 9月 2018 19:05)

    っということで、質問の答えは、
    孝明天皇のご存命の間には、新政府なんていう概念自体なかったどころか、孝明天皇に弓矢をひき、実際、皇居にむかって大砲をぶっぱなしたのが長州藩でした。むしろほごの密勅では、会津藩、水戸藩を中心に幕藩体制の改革を命令をうけており、天皇様の死が驚天動地の革命の引き金となったのは間違いなかったのではないでしょうか?

    参考までに姉妹ブログで徳川慶喜公の生涯も紹介しております。ぜひ^^

    https://kakunist.jimdo.com/2015/10/18/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%85%B6%E5%96%9C%E3%81%A8%E6%B0%B4%E6%88%B8%E5%AE%B6%E3%81%AE%E5%AE%B6%E8%A8%93/