突然ですが、家訓ニストの趣味は、「囲碁」です。
中学3年生の時に、ルールを覚え、以来、パチパチと楽しんできました。
囲碁と思い浮かべて、あなたは何を想像しますか?
白と黒を並べて、挟んでひっくり返す・・・のは、オセロ。囲碁は、白、黒が交互にうち、陣地をとりあうゲームです。その歴史は古く、3000年前の中国で生まれたと言われています。
「チェスは人間が作った最高のゲーム。囲碁は神が作った最高のゲーム」と評され、古くは三国志の英雄達にも好まれ、日本にも飛鳥時代には伝来し、以降、武将や知識人、そして多くの庶民に親しまれてきました。チェスや将棋との違いは、創造力が問われる点です。創造力とは、見えない形をどれだけ描ききる力があるか、王様を取り合う短距離走のようなボードゲームに比べ、囲碁は、その奥ぶかさから、盤上を宇宙に例えられるほどです。
だけど所詮ゲームでしょ?っとお思いのあなた
「スーパーマリオ」が誕生して30年。大ヒットゲームでも、今もやっている人はいますか?人の世はうつろいやすく、趣味も多様化していきます。しかし3000年にわたって、人の興味を引きつけ、項羽も、織田信長も清少納言も愛したゲームって、娯楽以上の「なにか」がある証拠ではないでしょうか?
では、ここで囲碁が国を超え、時代をこえて愛されてきた秘密について考えてみます。
まずは、相手の打つ手を考える「ヨミ」の力や、全体を見渡す能力の「大局観」を身に着けることができます。
そして、二ストがお奨めする一番の魅力は、「勘」を鍛えることができることです。勘っというと、ちょっと「ごじゃっぺ」な印象を与えますが、決断をする時って、結局最後は、勘で決めているのではないでしょうか? 囲碁では、最後は、ビビッとくるインスピレーションを大事にします。それは、無意識の世界に手を突っ込んでいく作業だと考えています。
ぼくは、それを游(およ)ぐっと表現します。
これは、遊ぶの語源でもあり、遊ぶこと、游ぐことは、元々同じ意味をもっていたそうです。
知性というと、今は学校での勉強や、塾のことしか想像しませんが、本来はもっと自由で、人間を磨く要素の1つにすぎなかった気がします。
今につづく、学歴社会は、中国の科挙試験に由来し、その目的は、身分の分け隔てなく、優秀な人物を発掘するためでした。しかし、科挙試験導入前の人物の評価システムは、囲碁であったと言われています。事実、遣唐使で海を渡った阿倍仲麻呂は、囲碁の名手として名を馳せ、外国人でありながら中国国内でたかい官職についたことが知られています。
学校の点数が何点だったとか、どこの学校を出たとこか、それは1つの定規であって、本質ではありません。身に着けた知性をもって、あなたが何をなすのか?ポイントはその1点です。
囲碁と等しく、勉強して身に着けたもの、あるいは仕事でえた知識。そんなものが一度捨てられ、空気のように自身にまとわりついた時、ようやく本質がみえるのでないでしょうか?
これは、躾の関係にも似ています。箸の上げ下げや、立ち振る舞い、意識して直せるものでもなく、これは日常のなかでの「躾」(しつけ)によって、無意識に身に着けるもの。家訓ニストが、家訓づくりを皆様にお奨めする理由もここにあります^^
身に着けたものが、一度なくなり。そしてあったことさえも無意識に感じられるとき、人は人生を遊び、游ぐことができるかもしれません・・・
そんな境地を孔子さまは、論語のなかで「藝に遊ぶ」と表現されました
この一節は、 水戸が誇る藩校の弘道館の軒先に額縁としてかがげられています。
原文は、「志於道 拠於徳 依於仁 遊於芸」
孔子曰く、正しい道を志し、徳を根拠とし、仁に依って芸(教養)のなかに遊べと。
孔子の言う芸とは教養であり、学問と礼儀作法、武芸も含まれていました。
そして人への愛情、仁を大切にしつつ、そういった教養(芸)のなかに遊んで、人格の幅を広げよと・・・
そして、囲碁の格言には、こんな格言が存在します
「定石を 覚えて 三目弱くなり」
勉強することで努力した自分に酔うっと、かえって弱くなる!という格言です。
学校で、教えてくれることって、人生では、わずかなことかもしれません。
わたしは、幸運にも、囲碁と家訓づくりのプログラム化によってそのことに気づきました。
身に着けたものが、一度なくなり。そしてあったことさえも無意識に感じられるとき、人は人生を遊び、游(およ)ぐことができるのです。
踊るアホに、見るアホ~。同じアホなら踊りゃな損損^^
ぜひ、皆様も家訓をつかって、人生でなすべきものを見定め、浮き世を游ぎ、遊んでいきましょう!
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