家訓をもつ偉人伝③ 「福沢諭吉」
お札にもなっている「福沢諭吉」さん。慶応大学の創設者であり、「学問のすゝめ」等の著作もベストセラーになり、学者、教育者の枠に収まりきれない数々の偉業を成し遂げた偉人です。
たとえば、ハングルを作ったのは諭吉であるっという史実をご存知でしょうか? 民族の誇りである「ハングル」を日本の植民地下で奪ったというのも事実ですが、明治初期、歴史の中に埋もれていたハングルを発掘し、監修をおこない更に、朝鮮の発展のため、文盲(文字が読めない方)を撲滅するために、その普及に努めたのが諭吉であったのです。
「ペンは剣よりも強し」
血気盛んな維新の英雄の中にあって、諭吉は官に仕えず、在野の立場で国の行く末を案じた人物です。さらに朝鮮の例にかぎらず、教育の重要性をとき、自身が創設した慶応大学の紋章も、教育は剣よりも強いとばかりに、ペンがデザインされています。
さてそんな諭吉さんは、生徒さんだけなく、ご家族にもしっかりとした教育を施しています。それが、「ひびのをしへ」と題した福沢家の家訓となります。
一、うそをつくべからず。
一、ものを拾うべからず。
一、父母に聞かずして ものを貰うべからず。
一、強情を張るべからず。
一、兄弟けんか、かたく無用。
一、人のうわさ、かたく無用。
教育界の大家ともいえる諭吉が子供たちに伝えたかったことは、等身大のメッセージばかりでないでしょうか? 明治から、大正、昭和をへて、現代に生きる私たちが、子供たちに何を伝えるべきなのかを改めて考えさせられます。
諭吉の父親・百助は、諭吉が3歳のとき急死しており、中津藩の下級武士として、苦学をするも、身分のために官職にもつけず生涯を終えたことが知られています。歴史的には光のあたらない人物ですが、諭吉の母親は、常々「お父さんのような人になれ」と諭吉を含めた子供たちを諭していたそうです。
諭吉自身、尊敬する人物の一番に父親の名前を挙げていたそうです。
本当の偉人は、諭吉でなく、諭吉を育んだお父さん、お母さんなのかもしれません・・・
最後にニコニコ大百科より諭吉の人となりがわかるエピソードを紹介します^^
天保5年12月12日(1835年1月10日)豊前中津奥平藩の士族、福沢百助の5人兄弟の末っ子として生まれる。 父が大阪に勤務していた為大阪で生まれるが、3歳の時に父が死去、一家総出で中津藩に帰参する。
今で言う母子家庭で、の母於順(おじゅん)は厳しくは無かったが躾はしっかりしていたようで、三味線や芝居見物などは暗黙の了解で厳禁だったらしい。 兄弟仲はとても良かったが、中津藩では方言が違うなどの理由で上手く適応できず友人が居なかったという。 物心着く前に父は死んでいたが、学者になりたくても身分が原因でなれなかった父に対して特別な思いがあったようで、後に「門閥制度は親の仇」と自伝で語っている。
少年時代のエピソードとして有名なものに、殿様の名前が書いてある札を踏んだら罰が当たると兄に怒られ、それなら神様の名前が書いてある札を踏んだらどうなるかと試したが何とも無かったという逸話がある。ついでに便所紙として使っても何とも無かったらしい。
また、神社に御神体として置いてあった石を別の石と置き換えてみたり、飾ってあった札を取って捨てた後、神社の周りでお祭りが始まったのを見てm9(^Д^)プギャーするなど迷信の類は一切信じない性質であった。
読書は大嫌いだったが、14歳頃になって近所の連中が皆読書しているのを見て焦ったのか、塾に通って猛勉強を始める。 蒙求、世説、左伝、戦国策、老子、荘子、前後漢書、晋書、五代史、元明史略などを全て通読、11回も読み返し面白いところは暗記するという秀才振りを発揮した。
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お札(ふだ)をトイレ紙に使うなんて(><)
そんな諭吉さんも、自分がお札(さつ)に使われるなんて夢にも思っていなかったでしょう^^
偉人は1日にしてならず。
みんなが大好きな1万札は、ご自身の努力で集めてください
そして、あなたは、「家訓」を使って、明日の諭吉を育ててください!
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