幡谷邦三
邦三さんは、家訓ニストの祖父・哲郎の弟にあたる大叔父です。
大東亜戦争末期、ビルマ(現・ミャンマー)に出兵し英霊となられました。享年26歳、手先の器用な方だったらしく、実家には高校時代の美術の時間にほられた作品が残っています。
ビルマは、インパール作戦で有名は激戦地です。若くして英霊となった邦三大叔父の半生を終戦の日に刻みます。
ネットで「幡谷邦三」と変換してください。たぶんこのブログが先頭にきて、他は何の情報もないことでしょう。でも、邦三は確かに存在し、祖国のため果敢に戦った英雄なのですです。若くしての出兵ということもあり伴侶も、ご子息ご息女はありませんでした。平成25年現在、邦三叔父さんのご偉功をたたえるものはお墓しかありません。そして家訓二ストは、長男としてこのお墓を守っています。ぼくにできることは、お墓の草むしりっと、消えそうな存在をこうしてブログに公開することだけと想い筆をとりました。
まずビルマ戦線の「インパール作戦」について記載します。
インパール作戦とは、1944年(昭和19年)3月に日本陸軍により開始され7月初旬まで継続され、こう着していた日中戦争の補給ルートを戦略目的としてインド北東部の都市インパール攻略を目指した作戦のことである。 しかし、補給線を軽視した世界史史上でも稀な杜撰(ずさん)な作戦により、多くの犠牲を出して歴史的敗北を喫し、無謀な作戦の代名詞として現代でもしばしば引用されています。
この作戦の困難さを、吉川正治は次のように説明しています。
「この作戦が如何に無謀なものか、場所を内地に置き換えて見ると良く理解できる。インパ-ルを岐阜と仮定した場合、コヒマは金沢に該当する。第31師団は軽井沢付近から、浅間山(2542m)、長野、鹿島槍岳(長野の西40km、2890m)、高山を経て金沢へ、第15師団は甲府付近から日本アルプスの一番高いところ(槍ケ岳3180m・駒ヶ岳2966m)を通って岐阜へ向かうことになる。第33師団は小田原付近から前進する距離に相当する。兵は30kg - 60kgの重装備で日本アルプスを越え、途中山頂で戦闘を交えながら岐阜に向かうものと思えば凡その想像は付く。後方の兵站基地はインドウ(イラワジ河上流)、ウントウ、イェウ(ウントウの南130km)は宇都宮に、作戦を指導する軍司令部の所在地メイミョウは仙台に相当する。 このように移動手段がもっぱら徒歩だった日本軍にとって、戦場に赴くまでが既に苦闘そのものであり、牛馬がこの峻厳な山地を越えられないことは明白だった。まして雨季になれば、豪雨が泥水となって斜面を洗う山地は進む事も退く事もできなくなり、河は増水して通行を遮断することになる。
本作戦は参加した日本陸軍部隊・インド国民軍に多大な損害を出して、7月1日に中止された。日本陸軍の損害は、『戦史叢書』によれば、戦死者が第15軍の主力3個師団で計11400人・戦病死者が7800人・行方不明者1100人以上(計20300人以上)にのぼり、そのほか第15師団だけで3700人の戦病者が発生した。別の説によれば参加将兵約8万6千人のうち戦死者3万2千人余り(そのほとんどが餓死者であった)、戦病者は4万人以上ともいう 戦死者の主原因が餓死という悲劇に対し、この作戦の立案者でもある牟田口は現地で牛を調達し、荷物を運ばせた後に食糧としても利用するという「ジンギスカン作戦」を発案していた。しかしビルマの牛は低湿地を好み、長時間の歩行にも慣れておらず、牛はつぎつぎと放棄され、「ジンギスカン作戦」は失敗した。
また、当初の危惧通りインパール作戦が頓挫した後も強行・継続し、反対する前線の師団長を途中で次々に更迭した。このとき、戦況の悪化、補給の途絶にともなって第31師団長佐藤幸徳中将が命令を無視して無断撤退するという事件を引き起こした。 その後、佐藤中将は、極刑を覚悟しつつ作戦失敗の責任を追及する姿勢をみせたものの精神病との鑑定結果をもって軟禁、戦後をむかえる。
一方、牟田口は、4万人といわれる死者、しかも死因が餓死者という凄惨な作戦失敗の責任をとることもなく、戦後も自己弁護をつづけ長寿を全うした・・・
大東亜戦争自体の目的は自衛のものであったし、またこの大戦がきっかけにして、多くの国が独立を果たしたのも事実です。しかし、インパール作戦については、無謀であったと断罪できます。そして、この作戦の中で、邦三さんが参戦していたことを考えると、考察とは別の感情に押しつぶされそうになります。
イギリスでは、参謀本部が、作戦を考える際3%の死者があった場合、その作戦を中止するそうです。インパール作戦の死傷者はなんと7割(10万の兵士の投入に対し戦死者4万、病死者3万)。
そして牟田口は、陸軍士官学校を卒業した「官僚」でもありました。現場をしらないエリートの暴走は、いまの政治の有り方に良く似ています。 勝敗のつく戦地と違って、暴走する公共事業の失敗の責任をとるのは、未来の国民です。そして、官僚さんは牟田口と同じく悠々と天下りをし余生を送るのでしょう・・・
無謀な作戦の元、英霊となったの御霊にできることは、このバカバカしい作戦を未来への教訓として残すことなのではないでしょうか?
経験は、教訓として遺すことができます。家訓ニストの考える現代の「インパール作戦」は、東京電力による原発の爆発事故です。ここで史実と比較し、その無謀さを検証してみます。
東京電力を官僚型の統治機構とした場合、取締役は軍官僚。あれだけの事故をおこし、なおかつ数兆円の国費を投入されながらも、事故をおこした取締役達は、責任をとったポーズだけをみせ、退職金を懐にいれ、東電退任後は、関連会社に全員が天下っています。 そこに正義はあるでしょうか?
邦三大叔父の武功に報いるものは、経験を教訓にかえること。そこから何を学び行動するか?という未来への約束です。
邦三を殺したものは、アメリカでもなく、軍国主義でなく、責任を上手に回避する官僚組織という構造なのです。
そしてこの官僚組織の腐った構造は、行政や、東電だけでなく、今の日本をも病魔に巻き込んでいます。
ここで、あらためて、東電の取締役さんのその後を紹介させていただきます。
勝俣恒久会長 →日本原子力発電の社外取締役に再任
清水正孝社長 →関連会社・富士石油の社外取締役に天下り
武井優副社長 →関連会社・アラビア石油の社外監査役に天下り
宮本史昭常務 →関連会社・日本フィールドエンジニアリングの社長に天下り
木村滋取締役 →関連会社・電気事業連合会の副会長に再任
藤原万喜夫監査役 →関連会社・関電工の社外監査役に再任
それぞれのご家族は、海外に移住済みとの報道もあります。東電の官僚組織の保身の見事さと、今も帰宅できない15万人の福島のみなさん。そして同じ会社内でも過酷な状況で指揮をとりつづけ、命を削った吉田所長の姿・・・
インパール作戦のバカバカしさと、凄惨な結果。
そして絶対安全だ!と言いつけられてきた原発事故の結末と、住民の皆様のご苦労・・・
似ていると思いませんか?
温故知新。歴史を学ぶことは、今を知ること。 おばあちゃんの家にいったとき、古ぼけた絵が一枚ありました。幡谷邦三大叔父が、図工の時間に作ったものだと、おばあちゃんは言いました。
7万人といわれる英霊に、7万通りの物語があったことでしょう。 同じように、福島の15万人の帰宅困難な皆様にも、15万通りの物語があるはずです。 終戦の日に、考えることがたくさんあります。大東亜戦争での戦死者、軍人230万人。一般人80万人。310万通りの来れなかった未来に私たちは暮らしています。英霊にそっと手をあわせ、あなた自身が「考える」そんな1日にしてください。
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