水戸家の家訓 後篇は、慶喜公編です^^
水戸徳川家の家訓、それは
「どんなことがあっても天皇家を守る」
では、どんなことがあったのか?ここでちょこっと整理します
歴史は、斉昭、慶喜の親子2代の間で、めまぐるしくかわります。
幕府をただすはずが、いつのまにか将軍(幕府側)になり、攘夷をしない幕府を倒す運動が、いつのまにか、攘夷をめざす幕府を、攘夷をするつもりもない薩長が倒したり・・・
ここで主な出来事を紹介します。
①ペリー来航以来、国内が混乱する
②水戸学、弘道館の哲学「尊王攘夷」が改革派の旗印となる。
③改革派として、幕府に目をつけられ弾圧をうける
④維新の幕開けとなる「桜田門外の変」がおこる
⑤孝明天皇より攘夷(外国をうつ)密勅がくだる
⑥幕閣内で、敵?であった水戸藩より、慶喜公が将軍に奉じられる
⑦「尊王攘夷」だったのに、水戸藩→薩摩→長州っと、敵と味方が目まぐるしくかわる(*_*)
⑧大政奉還が慶喜によって実施
⑨鳥羽伏見の戦いがおこり、慶喜の戦線離脱により、幕府軍が総崩れ。
⑩東京無血開城後、新政府が樹立
どんなことがあっても天皇家を守る!
どんなことがあったか? 詳細に研究してみましょう
慶喜公が、歴史の中で、評価をうけない理由は、鳥羽伏見の戦いにおける動きからです。「自分も京・大阪で戦うぞ」と一度は宣言しておきながらも、慶応4年(1868年)1月6日夜、大坂城を抜け出し、江戸に逃げ帰ってしまった・・・
ワイドショー的にいえば、「なんと、部下を見捨ているとは!」とか、「臆病風に吹かれたので」という見方からもしれません。
これを家訓二ストは、日本を救った英断である!っと断言します。
慶喜の黎明さは、多くの証言が誇っています。逃げ帰ることは、歴史に汚名を残すことも当然わかっていましたし、300年にわたる徳川の治世が終わることも、分かっていました。
鳥羽伏見の戦いという短期的な勝ち負け、徳川家の300年の歴史。これさえも表層的な勝ち負け。慶喜自身の名誉という勝ち負け。水戸家の家訓でいう「どんなことがあっても天皇家を守る」。これだけ明確に、思想を行動で示した人物をぼくは知りません!
維新から200年たっても、慶喜の評価がまだ6:4、いや9:1で汚名をきたままかもしれません。
しかし、結果だけみれば、汚名を一身に背負うことで、内戦の危機を未然に救い更に、植民地化を狙う西欧列強を手玉にとった大政治家だったことは明確な事実です。
アフリカととわず、アジア、アメリカ、当時の世界情勢の中、独立をまもった国は、2つだけ、イギリス、フランスの緩衝地帯として残されたタイ王国とわが日本だけです! 慶喜のきわどい戦いは、国内の戦に負け、国際の戦に勝ったものと結論づけます。第15代 最後の将軍・慶喜公は、初代・家康公を優る大人物といってもいいのでないでしょうか?
維新という革命ののち、慶喜は、歴史の表舞台から去り80近くまで命をつなぎます。新政府側になった薩長においても、慶喜を惨殺しなかった姿勢は、立派です。事実21世紀になっても、ビルラディンも、フセイン大統領も、殺されています・・・
歴史は、その後、新政府内での抗争にうつり、薩摩の離脱で西南戦争がおこり西郷さんが死去。新政府にのこった大久保も、初代総理大臣 伊藤博文も、全員ろくな死に方をしていません。
見事に負けた慶喜は、最後に勝ったのか、それは偶然だったのか?
死の前年に、慶喜は名誉回復とともに、明治天皇の招きをえて皇居での会食の機会が設けられました。
慶喜の考えや、行動は最後まで明治政府の監視におかれ、肉声はほとんど残されていません。しかし、水戸徳川家の家訓と、斉昭、慶喜。二人の名君の行動は、雄弁に歴史を語ってくれます。
その後、薩長によって乗っ取られた「尊王攘夷」は、明治、大正、昭和と鬼子のように日本の歴史をゆがめていきます。そして、大東亜戦争の敗戦・・・
有史以来、日本をそして天皇家を一番危機に陥れたものこそ、歴史の節目で、慶喜のような器をもてなかったせいだともいえます。
水戸に生きるものとして、家訓にいき、汚名をせおい、日本を救った慶喜公の遺徳を高らかに啓示します。
慶喜ももちろん、学んだ弘道館。弘く、道をひろめる運動は、第二次世界大戦という避けがたい悲劇の中でも、結果として、植民地化の波をとめ多くの国の独立を誘発しました。このことを「人の道」と家訓二ストは考えます。
時代はかわり平成の世、水戸青年会議所では、すべての活動を平成弘道館として位置づけ、多様な学ぶ機会をひろく市民に提供してきました。
弘く、道をとく。家訓二ストもこの道にそって、人の道をさがしていきます^^
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