「ならぬものはならぬ」続編~おとな背中~

写真:松平容保公
写真:松平容保公

「ならぬものはならぬ」続編

 

家訓づくりのリフォーム中。
会津「什の掟」より「ならぬものはならぬ」という一節を家訓づくりに盛り込めないか?検討中です。

 

子供の人権とか、話しあいが大切とか、価値観を押し付けるなとか
今のお父さん、お母さんは「決まり」がたくさんあって大変です

今回は、「ならぬものはならぬ」っと生涯を生き抜いた容保に「ことば」の重さを学びます。

 

写真は、会津藩の最後の藩主となった松平容保公。
会津藩主だった松平容保は、小さな竹筒を首から提げて終生肌身離さず、そしてその中身を誰にもみせなかった。 容保は明治26年、朝敵の藩主として波乱にとんだ人生を閉じたが、生涯かたくなまでに守り通したものは何だったのか。

 容保は文久3年(1863)孝明天皇からご宸翰(ごしんかん:天皇直筆の手紙)と御製(ぎょせい:天皇の和歌)を下賜されています。

 

薩長が起こした倒幕の運動で、今の世の中があるのは事実。

しかし、歴史の中の正義は、必ずしも薩長だけの視点で語られない部分もあるのも事実です

 

容保が、終生はなさず密勅こそ、真実の陛下の意思。

つまり、新政府となる薩長側より先に、勅(天皇の言葉)を預かっていた容保こそが、尊攘の志士。勅をあやつり、歴史を書き換えた薩長こそが朝敵なのです。

 

歴史の転換点で、「朝敵」と罵られた会津藩。

薩長を中心とした政府軍に倒幕後、維新後と残酷な仕打ちをうけながら、容保は一切を語らず、ただ陛下の本当の意思を自分の胸に隠していました。一節には、勅の中に秘密を守るよう指示があったため隠してきたとも言われ、名誉を回復手立てにも使わず、もちろん明治新政府に申し立てをするわけでもなく、一切を胸にひめ、生涯を終えています。

 

遺品を整理し勅が発見されるのは死後10年がたった頃。

「正義は会津にあり」と辛酸を舐めた会津の藩民も、溜飲をさげたことが予想されます。

 

語らずもこれほど雄弁な生き様を見せたリーダーも少ないはず。

言葉でなく背中、容保の半生こそが最高の教科書であると教えてくれています。

 

「ならぬものはならぬ」

愚直すぎる容保の生き様に、「言葉」軽く操る現代人への警鐘をも感じます。

 

「ならぬものはならぬ」

この言葉を子供に伝えるとき、大人の側にこそ「覚悟」が必要です。

むしろ、子供のいうことを聞き、妥協し、逃げ道をつくる方が楽かもしれません。

 

「ならぬものはならぬ」の言葉は、こどもを育む言葉ではなく、大人に真の覚悟をせまるもの

社会のきまり、安易な報道、意味ありげな教育評論家。ヒントではあるが答えではない。

結局、全身全霊を傾けた独善でしか、人をしかれず、また人を導くことは不可能なのでしょう

 

「ならぬものはならぬ」

かっこいいな・・・いえないな(><)

 

家訓づくりは、大人の背中養成ギブス。頼りがいのあるあなたの背中を、家族も社会もまってます。