家訓あるある「人に迷惑をかけない」という哲学

家訓ニストの幡谷です。

現在、足掛け3年で全国3500名の皆様に家訓をつくって頂いています。

 

北は、北海道・稚内から、南は九州・人吉まで。

そのそれぞれに、家訓にこめた想いがあり、そしてその底流に、日本に秘められた、とてつもない哲学あるのだと、感じ始めています。

 

今回のお題は「日本人でよかった」

ブログ3日目で、早くもスピンオフ企画の登場です^^;

 

家訓づくりプログラムでつくられる創作家訓に、かなり確率で登場する家訓があります。 それが、「ひとに迷惑をかけない」という家訓です。

 

この背景を幡谷の独断と偏見で探ります。

 

日本には主に神道と仏教の2つの宗教があります。日本ではこれらの宗教は大きな意味を持っており、日本人の考え方や精神性、仕事や神に対する姿勢から自然や美意識までに影響を及ぼしており、普遍的に存在する要素なのではないでしょうか?

 

特に神道は、一神教であるキリスト教やイスラム教とは異なり、多神教であり特に開祖者の存在もなく、聖書やコーランのような聖典もない。また、階級といった区分けももたらさず、教訓や生き方の教えも特にないと、西洋社会における宗教と大きく異なっています。

 

戒律がないことで、生まれる道徳というのが「日本人の尊さ」の源泉になっていることに、あなたは気づいているでしょうか?

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は、啓示宗教ともいわれ、神様の教えを書物として整理し、宗教的儀式にくわえ、日常生活の「豚をたべちゃいけない」「日曜に働いてはいけない」とかとか、結構親切に、生活の端々に戒律を設けています。

 

しかし、戒律があり、信徒はこれを守る。という考え方が、戒律さえ守っておけば、それでいい・・・

っという短略的な考え方を誘発する怖さも含んでいます。

 

この時、日本の道徳、とくに神道を底流とした「哲学」のすごさは、決まりがない!という最強の矛盾です^^

この言葉なき哲学をむりやり言葉にあてはめれば、「お天道さまがみている」という自分への戒めでしょうか?

 

不肖幡谷も、ばれなきゃいいっとイタズラを働き、「お天道さまがみている」っと今はなき祖母から怒られていた事を思い出します。

 

例えば、万引きをしたとして、その善悪をどう解釈するのか?

一義的には、盗難は犯罪ですから、法にのっとり処罰されます。

また「見つからなければいい」という考えも、現行犯逮捕が前提となれば

嘘ではありません。法治国家では、法の想定していない悪事は、原則無罪になります。これは善悪で統治するのでなく、法で統治するがゆえの矛盾です。例えば、原発事故がおこっても法律で想定していなければ、それは「無罪」っとなってしまうのです。

 

これが、法、そして戒律でおこりうる最大の自己矛盾です。

 

「お天道さまがみている」っという戒律なき哲学のすごさは、内在する尊さの豊富さでもあります。

震災の時、配られる食料を奪い合うこともなく分け合う姿に、世界各国は驚きをもって報道を繰り返しました。

 

この事実は、日本に脈々と流れる

「お天道さまがみている」⇒「ひとに迷惑をかけない」という哲学の結晶に他なりません。

ひとに迷惑をかけない、という考え方に、正解はなく、また報酬もありません

ひとに迷惑をかけない、という考え方は人々に戒めと、気遣い、そして社会に秩序をもたらします。

 

あ~日本人にうまれてよかった!

 

家訓づくりプログラムは、伝えたい言葉を探るプロセス。

伝えたい言の葉は、結果的に日本人に受け継がれてきた誇り高き精神性と出会う旅でにもなるでしょう。

 

あなたは「日本人に生まれてよかった」と実感できていますか?

もし自信がないならば、家訓づくりに挑戦ください。きっとあなたの心に忘れかけていた、あったかくて懐かしいものと出会えるはずです。

 

家訓づくりプログラムは、そんなあなたの受講をお待ちしております。