家訓二スト厳選★偉人の家訓集

 

【歴史上の偉人の家訓】

① 徳川家康       いわずもがなの天下人。264年間続く江戸時代、平和を築いたタヌキおやじ

② 伊達政宗       独眼竜として恐れられた奥州の王。伊達もの(派手好き)としても有名

③ 毛利家        戦国時代、中国地方の大大名、のちに維新の中心になった長州藩をひきいた

④ 会津藩        奥州の雄藩として知られ、戊辰戦争後も忠義を守り戦いぬいた

⑤ 上杉家        室町時代より続く名門の大名。上杉謙信が有名。

⑥ 山岡鉄舟       明治維新の際、旧幕臣でありながら才能をこわれ活躍。剣、書でも達人

⑦ 柳生家        将軍の剣術指南役として隆盛をきわめ、多くの剣豪を排出した名門

 

【商家の家訓】

① 金剛組        578年創業   世界最古の企業。創業来、建設業を営む

② 住友家        17世紀創業  銅鉱山の経営から、一大グループへ

③ 鴻池家        16世紀創業  金融業

④ 竹中工務店      17世紀創業  建設業

⑤ 福寿園        18世紀創業  製茶業

⑥ 三井家        18世紀創業  呉服店から現在も「三越」のブランドで隆盛

⑦ 安田家(安田 善次郎) 安田財閥、銀行、損保などを設立

⑧ 渋沢家(渋沢 栄一)  各種銀行など、500社を創業

⑨ 岩崎家(岩崎 弥太郎) 三菱グループの創始者。高知県出身、坂本竜馬の盟友。

⑩ 大倉家(大倉 喜八郎) 帝国ホテルなどを起業。繊維業で隆盛

⑪ 豊田佐吉        豊田自動織機創業、トヨタグループ創始者    

⑫ 松下幸之助       松下電器産業創業 (現パナソニック) 

 

 

【現代に生きる偉人の家訓】

①     宮本警部   電車の下敷きになりそうな女性を救出も、殉職された警察官

②     王貞治    通算ホームラン数、世界一の記録をもつ、元プロ野球選手。監督としても著名

③     石原慎太郎  都知事ほか、多くの役職を歴任。小説家としても著名。弟は、俳優の石原裕次郎

④     上野由岐子  女子ソフトボール選手。オリンピックで日本の金メダル獲得に貢献

 

 

■徳川家康

 

人の一生は重き荷を負って遠き道を行くが如し、急ぐべからず

不自由を常と思えば不足なし

心に望み起こらば困窮したる時を思い出すべし

堪忍は無事長久の基、怒りは敵と思え

勝つことばかり知りて負くることを知らざれば、害その身に至る

己を責めて人を責むるな

及ばざるは過ぎたるに勝れり

 

天文11年(1542年)三河国岡崎(現・愛知県岡崎市)出身日本の戦国武将、江戸幕府の初代征夷大将軍。徳川氏の祖。徳川家康は、織田信長と同盟し、豊臣秀吉に臣従した後、日本全国を支配する体制を確立して、15世紀後半に起こった応仁の乱から100年以上も続いた戦乱の時代(戦国時代、安土桃山時代)に終止符を打った。家康がその礎を築いた江戸幕府を中心とする統治体制は、後に幕藩体制と称され、17世紀初めから19世紀後半に至るまで264年間続く江戸時代を築いた。

辞世の句は、「嬉やと 二度さめて 一眠り 浮世の夢は暁の空」

 

 

■    伊達政宗 

仁に過ぐれば弱くなる。

義に過ぐれば固くなる。

礼に過ぐればへつらいとなる。

智に過ぐれば嘘をつく。

信に過ぐれば損をする。

気長く心穏やかにして、万に倹約を用いて金銭を備うべし。

倹約の仕方は不自由を忍ぶにあり。

この世に客に来たと思えば何の苦もなし。

朝夕の食事うまからずともほめて食うべし。

元来客の身なれば好き嫌いは申されまじ。

今日の行をおくり、子孫兄弟によく挨拶をして、娑婆のお暇申すがよし

 

伊達政宗は、戦国時代の武将。出羽国(羽州)と陸奥国(奥州)の戦国大名。陸奥仙台藩の初代藩主。本姓は藤原氏。家系は伊達朝宗を祖とする伊達氏。第16代当主・伊達輝宗と最上義守の娘・義姫(最上義光の妹)の嫡男。幼名は梵天丸、字は藤次郎、諡号は貞山。神号は武振彦命で、青葉神社に祀られる。後世には「東北王」や「奥州の虎」、幼少時に患った疱瘡(天然痘)により右目を失明し隻眼となったことから「独眼竜」等と称されている。

辞世の句は、「曇りなき 心の月を 先だてて 浮世の闇を 照してぞ行く」

 

■    毛利家 

我が毛利家は、版図の保全のみを願い、天下を望むなかれ (天下を競望せず)。

天下を支配する者は如何に栄耀栄華を誇っても、何代かのちには一門の枝折れ、

株絶えて、末代の子孫まで続くことは無い。

天下に旗を翻して武名を一世に挙げるよりは、むしろ六十余州を五つに分けて

その一つを保ち、栄華を子々孫々まで残せ。

 

鎌倉時代末期から南北朝時代初期にかけて、越後国佐橋庄南条(現在の新潟県柏崎市)から安芸国高田郡吉田(現在の広島県安芸高田市)へ移った後に国人領主として成長し、山名氏および大内氏の家臣として栄えた。戦国時代には国人領主からついに戦国大名への脱皮を遂げ、中国地方最大の勢力となる。しかし1600年の関ヶ原の戦いでは西軍の総大将となり、敗戦後、周防国・長門国の2ヶ国に減封されるも、江戸時代を通じて安泰であった。江戸時代末期には長州藩から数々の優秀な志士が現れ、明治維新を成就させる原動力となった。

安芸国の国人として土着した毛利氏は、1557年、陶晴賢の傀儡であった大内義長を攻め滅ぼし、大内氏の旧領をほぼ手中にする。その後は北九州に侵入し、筑前国や豊前国の秋月氏や高橋氏を味方につけ、大友氏とも争った。1560年には元就の長男で毛利氏当主の隆元が安芸守護に任じられている。隆元の没後はその子の毛利輝元(54代)を後見しつつ、1566年、仇敵の尼子氏を滅ぼして、中国地方(安芸・周防・長門・備中・備後・因幡・伯耆・出雲・隠岐・石見)を領有した。毛利元就の長男の毛利隆元、次男の吉川元春、三男の小早川隆景の3名はそろって名将であり、弟2人は毛利宗家を支えた毛利両川として名高い。

新年の会において、家臣より「今年は倒幕の機は如何に?」と藩主に伺いを立て、それに対し「時期尚早」と藩主が答えるのが毎年の習わしだったとも伝えられるが、確かな史料に基づく話ではない。江戸時代末期、毛利敬親の時、長州征伐等により幕府から圧迫を受けたが、吉田松陰や高杉晋作、桂小五郎等の有能な人材を輩出し、明治維新を成就させた。

(三本の矢)

 ある日、元就は三人の息子(隆元・元春・隆景)を枕元に呼び寄せ、1本の矢を折るよう命じた。息子たちが難なくこれを折ると、次は3本の矢束を折るよう命じたが、息子たちは誰も折ることができなかった。元就は一本では脆い矢も束になれば頑丈になるということを示し、三兄弟の結束を強く訴えかけた。これが有名な「三本の矢」の逸話である。

 

■会津藩  

一、大君の儀、一心大切に忠勤に励み、他国の例をもって自ら処るべからず。

  若し二心を懐かば、すなわち、我が子孫にあらず 面々決して従うべからず。

一、武備はおこたるべからず。士を選ぶを本とすべし 上下の分を乱るべからず

一、兄をうやまい、弟を愛すべし

一、婦人女子の言 一切聞くべからず

一、主をおもんじ、法を畏るべし

一、家中は風儀をはげむべし

一、賄(まかない)をおこない 媚(こび)を もとむべからず

一、面々 依怙贔屓(えこひいいき)すべからず

一、士をえらぶには便辟便侫(こびへつらって人の機嫌をとるもの

  口先がうまくて誠意がない)の者をとるべからず

一、賞罰は 家老のほか これに参加すべからず

  もし位を出ずる者あらば これを厳格にすべし。

一、近侍の もの をして 人の善悪を 告げしむ べからず。

 

 

什の掟

一、年長者の言うことに背いてはなりませぬ

二、年長者には御辞儀をしなければなりませぬ

三、虚言をいふ事はなりませぬ

四、卑怯な振舞をしてはなりませぬ

五、弱い者をいぢめてはなりませぬ

六、戸外で物を食べてはなりませぬ

七、戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ

ならぬことはならぬものです

 

意:什(じゅう)は、会津藩における藩士の子弟を教育する組織。同様の組織に薩摩藩の「郷中」がある

 

会津藩は、現在の福島県に位置する奥州の雄藩。寛永20年(1643年)に、二代将軍秀忠の子の保科正之が、入封した。正之は、三代将軍家光の異母弟として、家光の信頼を受けて幕政に重きをなした。最後の藩主となった九代容保は、文久2年(1862年)、容保は京都守護職となり、更に新撰組を麾下に置いて会津藩士ともども尊攘派志士の取り締まりや京都の治安維持を担った。そして禁門の変では、孝明天皇を奪取しようとした長州藩勢から御所を守り抜いた。慶応212月(18671月)に孝明天皇が崩御すると、既に薩長同盟を締結していた薩摩藩、長州藩との対立が激化した。大政奉還、王政復古を経て慶応4年(1868年)、鳥羽・伏見の戦いにより戊辰戦争が勃発した。会津藩は旧幕府勢力の中心と見なされ、新政府軍の仇敵となった。会津藩は奥羽越列藩同盟の支援を受け、庄内藩と会庄同盟を結ぶなどして新政府軍に抵抗したが、会津若松城下での戦い(会津戦争)に敗北して降伏した。少年兵を中心に組織されていた「白虎隊」が、自決した悲劇など凄惨をきわめた戦いであった。現代においても長州(現在の山口県)との間に、遺恨を残していると言われている

 

  

■上杉家 

1.心に物なき時は心広く体泰なり

2.心に我儘なき時は愛敬失わず

3.心に欲なき時は義理を行う

4.心に私なき時は疑うことなし

5.心に驕りなき時は人を教う

6.心に誤りなき時は人を畏れず

7.心に邪見なき時は人を育つる

8.心に貪りなき時は人に諂うことなし

9.心に怒りなき時は言葉和らかなり

10.心に堪忍ある時は事を調う

11.心に曇りなき時は心静かなり

12.心に勇みある時は悔やむことなし

13.心賤しからざる時は願い好まず

14.心に孝行ある時は忠節厚し

15.心に自慢なき時は人の善を知り

16.心に迷いなき時は人を咎めず

 

日本の氏族の一つ。元は公家であるが、鎌倉幕府の将軍となった親王の従者として関東に下向し、武士化した。鎌倉公方の執事、次いで関東管領の職を世襲し、相模、武蔵、上野、越後など一門で4か国の守護職を占める有力守護大名としても栄えた。戦国時代には関東における覇権を、次第に新興勢力である後北条氏に押され、山内上杉家の当主上杉憲政は、越後守護代として勢力を台頭させていた三条長尾家の長尾景虎(後の上杉謙信)に上杉の名跡を譲った。景虎は山内上杉家督、関東管領就任により上杉政虎(輝虎)と名乗った。これにより再び上杉氏は勢いを取り戻し、その養子景勝(越後長尾氏のうち上田長尾家より)は豊臣政権の五大老を務め、会津藩120万石。江戸時代は米沢藩30万石(実高51万石)を領した。のち無嗣の危機に瀕したこともあり15万石(実高33万石)に減知されたが、幕末まで大名としての地位を維持した。明治時代は華族に列し、伯爵を授けられた。

 

 

■山岡鉄舟

 1.嘘いうべからず候

2.君の御恩を忘るべからず候

3.父母の御恩を忘るべからず候

4.師の御恩を忘るべからず候

5.人の御恩を忘るべからず候

6.神仏並びに長者を粗末にすべからく候

7.幼者をあなどるべからず候

8.己れに心よからざること他人に求むべからず候

9.腹を立つるは道にあらず候

10.何事も不幸を喜ぶべからず候

11.力の及ぶ限りは善き方につくすべく候

12.他を顧みずして自分をよきことばかりすべからず候

13.食するたびに稼しょくの艱難を思うべし すべて草木土石にても粗末にすべからく候

14.ことさらに着物をかざり あるいはうわべだけをつくろうものは 心に濁りあるものと心得べく候

15.礼儀を乱るべからず候

16.何時何人に接するも客人に接するように心得うべく候

17.己れの知らざることは何人にでもならうべく候

18.名利のために学問技芸すべからず候

19.人にはすべて能、不能あり いちがいに人をすて或は笑うべからず候

20.己れの善行を誇り顔に人に知らしべからず すべて我が心に恥ざるに務むべく候

 

 

日本の武士・幕臣、政治家、思想家。爵位は子爵。剣・禅・書の達人としても知られる。鉄舟は号、他に一楽斎。通称は鉄太郎(鐵太郎)。諱は高歩(たかゆき)。一刀正伝無刀流(無刀流)の開祖。江戸に生まれる。家が武芸を重んじる家だったため、幼少から神陰流、樫原流槍術、北辰一刀流を学び、武術に異常なほどの才能を示す。浅利義明門下の剣客。維新後、一刀正伝無刀流(無刀流)の開祖となる。幕臣として、清河八郎とともに浪士隊を結成。江戸無血開城を決定した勝海舟と西郷隆盛の会談に先立ち、官軍の駐留する駿府(現在の静岡市)に辿り着き、単身で西郷と面会する。

明治維新後は、静岡藩権大参事、茨城県参事、伊万里県権令、侍従、宮内大丞、宮内少輔を歴任した

 

■    柳生家家訓

小才は縁に出会って、縁に気付かず。

中才は縁に気付いて、縁を生かさず。

大才は、袖すり会うた縁をも生かす。

 

江戸時代、将軍家剣道御流儀として名声をはくした。人を活かした「活人剣」を唱えた。その剣道の精神は「縁」を活かす道にも通じると知られている。現代にも、「柳生一族」として時代劇等にひろくとりあげられている。俳優として著名で、100万円クイズハンターの司会をつとめた柳生博氏は末裔にあたる

  

 

■ 金剛組

「お寺お宮の仕事を一生懸命やれ」

「大酒はつつしめ」

「身分にすぎたことをするな」

「人のためになることをせよ」

 

世界最古の企業。578年、四天王寺(現在の大阪府)建立のため聖徳太子によって百済より招かれた3人の宮大工のうちの1人である金剛重光により創業。江戸時代に至るまで四天王寺お抱えの宮大工となる。法隆寺建立の他、日本における宮大工の草分けとして、現代でも多くの神社仏閣の修理、再建をてがけている

 

 

■住友家 家憲 

1.主務の権限を超え、専断の所為あるべからず
2.職務に由り、自己の利を図るべからず
3、一時の機に投じ、目前の利に走り、危険の行為あるべからず
4、職務上に係り、許可を受けずして、他より金銭物品を受領し、または私借すべからず
5.職務上過誤、失策、怠慢、疎漏なきを要す
6.名誉を害し、信用を傷つくるの挙動あるべからず
7.私事に関する金銭の取引、その他証書類、各店、各部の名柄を用うべからず
8.廉恥を重んじ、貧汚の所為あるべからず
9.自他共同して他人の毀誉褒貶に関し私議すべからず
10
.機密の事を漏洩すべからず
11.
我営業は信用を重んじ、確実を旨として、以て一家の鞏固隆盛を期す
12.
我営業は時勢の変遷理財の得失を計り、弛張興廃することあるべしと雖も、苟も浮利に趨り軽信すべかららず

 

 

17世紀に住友政友が京都で商いをはじめ、以後銅山経営、両替商を開始し、現在まで続く、日本の名閥となっている。一族が経営から身をひいたあとも、浮利(ふり)にはしらずに代表される「家憲」は守られている。現在も住友グループ全体の売上高は約60兆円に達し、これは日本のGDPの約10%を占める規模である。また、住友不動産は、住友家の不動産資産を譲り受けてスタートしたことから、住友の本流を受け継いでおり、旧住友本社の資産を住友商事が引き継いでいる。 

 

人は堪忍を第一とす。忍の徳たる、万行苦戒もおよべからずと、仏言にものたまえり。己怒りて人に向へば、人また怒りて己に向ふ。衣服飲食、行住座臥、万事己が心に任せず、もっともこらえしのぶべし。ただへりくだり驕らずして、父母の遺体を守るべき事。

意:人は堪忍を第一にするのがよい。「忍」が立派な行いであることは、あらゆる修業や苦しい戒めも及ばないとお釈迦様もおっしゃっている。怒りの心で人に向かえば、人も怒って自分に向かってくる。日常生活の全ては。なかなか自分の思うようにいかない。だからこそ、たえしのぶ事が大事なのだ。ただ謙虚で驕ることなく、父母からいただいた体を粗末にしないこと

 

江戸時代に成立した日本の財閥。16世紀末、鴻池家が摂津国鴻池村(現・兵庫県伊丹市鴻池)で清酒の醸造を始めたことにはじまる。その後、一族が大坂に進出して両替商に転じ、鴻池善右衛門家を中心とする同族集団は江戸時代における日本最大の財閥に発展した

 

 

■    竹中工務店 「社是」 (1610年創業)

 

 正道を覆み、信義を重んじ堅実なるべし

勤勉業に従い職責を全うすべし

研鑽進歩を計り斯道に貢献すべし

上下親和し共存共栄を期すべし

 

大手総合建設会社である竹中工務店は、清水建設、大林組、鹿島建設、大成建設とともにスーパーゼネコン5社の一つである。お客様ありきの仕事であるという考えから「店」を用いている。 ちなみに、「工務店」という名を作り、社名としたのは同社が初めてである。江戸時代前期の1610年に、織田信長の元家臣であった初代竹中藤兵衛正高が尾張国名古屋にて創業。寺社仏閣の造営に携わる。やがて明治時代の到来により、ヨーロッパ型の建築技術を導入すると、当時開港し、都市化し始めた神戸へ進出。数々の建築物を施工し、これまでに施工した建築物は5大ドーム球場(札幌・東京・ナゴヤ・大阪・福岡)を始め、全国有名美術館や商業施設、さらには病院、オフィスビルなど多岐にわたり、施工実績の多さでは国内随一を誇る。

 

  

■福寿園 (1790年創業)

 

「無声呼人」

意:徳ある人のところには、呼ばれ無くても人が集まる。

 

大阪・神戸に通じる木津川の船着場として、また大和・伊賀街道の交叉地として諸物の集散地であった山城国上狛(現京都府木津川市山城町)に福井伊右衛門により茶商とて創業。老舗企業でありながら、平成16年には、サントリーとコラボレーションを実施、現在、伊右衛門のブランドとして、全国に名声を轟かせている。

 

 ■三井家  (18世紀創業) 

1.単木は折れやすく、材木は折れ難し。汝ら相協戮輯睦して家運の強固を図れ。

2.各家の営業より生じる総収入は、一定の積立金を引去りたる後、始めてこれを各家に分配すべし。

3.各家の内より一人の年長者をあげ、老八分と称してこれを全体の総理たらしめ、各家主は皆老八分の命を聞くべきものとする。

4.同族は相争うなかれ。

5.堅く奢侈を禁じ、厳しく節倹を行うべし。

6.名将の下に弱卒なし。賢者能者を登用するのに最も意を用いよ。舌に不平怨嗟の声なからしむように注意すべし。

7.主人はすべて一家のこと、上下大小の区別なく、すべてに通じる事に心がけるべし。

8.同族の小児は、一定の年限内においては、他の店員待遇をなし、番頭・手代の下に労役せしめて、決して主人たるの待遇をなさしめたるべし。

9.商売は見切り時の大切なるを覚悟すべし。

10.長崎に出て、外国と商売取り引きすべし

 

三井高利が伊勢国・松阪から江戸へ出て呉服屋を出店したことから三井家の事業は始まる。その後、京で両替商も兼業し、江戸時代を通じて三井家の事業の柱となる。維新後は、越後屋呉服店を三井の本流から切り離し、1876年(明治9年)三井銀行を創業。また同年に先収会社・貿易会社を合併させ、三井物産を創設した。政府は1880年(明治13年)頃から官営工場を三井や三菱などに安く払い下げた。そのため紡績業などが盛んになり、日本の産業革命を担う事になる。現代でも一大グループを誇る日本を代表する財閥である

 

 

■    安田家  

主人は一家の模範なり。

我よく勤めならば衆なんぞ怠らん。

我よく倹ならば衆なんぞおごらん、

我よく公ならば衆なんぞあえて私せん

我よく誠ならば衆なんど悪らん

 

安田財閥の祖。前衛芸術家オノ・ヨーコの曽祖父で、ショーン・レノンの高祖父にあたる。明治時代の実業家。

富山藩下級武士の子として生まれ、江戸にでて露店の両替商から出発し、安田銀行(現在のみずほ銀行の母体)を設立。損保、生保も立ち上げたほか、一代で財閥を形成する。活発な経済活動以外にも、東大安田講堂、日比谷公会堂など、公の意識を担い多くの寄付をしたことでも有名。「陰徳」の人として、今なお名声を集める偉人

 

 

■渋沢家 

第一則 処世接物の綱順

1.常に愛国忠君の意を厚うして、公に奉することを疎外にすべからず。

2.言忠信を主とし、行篤敬を重んじ、事を処し人に接するには必ず其の意を誠にすべし。

3.益友を近け、損友を遠け、いやしくも己にへつらう者を友とすべからず。

4.人に接するには必ず敬意を主とすべし、宴楽遊興の時といえども、敬礼を失うことあるべからず。

5.凡そ一事を為し、一物に接するにも、必ず満身の精神をもってすべし、瑣事たりとてもこれをかりそめに付すべからず。

6.富貴に驕るるべからず、貧賎をうれうべからず、唯知識を磨き徳行を修めて、その誠の幸福を期すべし。

7.口舌は禍福の因って生ずる所の門なり、故に片言隻語といえども、必ずこれをみだりにすべからず。

 

第二則 修身斉家の要旨

1.父母は慈にして、よくその子弟を教え、子弟は孝にして、よくその父母に事え、夫は唱え婦は随て、各々その天職を、各々その天職を尽くすべし。

2.よく長幼の序を守り、互に愛敬して、敢て憎嫉紛争の事あるべからず。

3.勤と倹とは創業の良図、守成の基礎たり、常にこれを守りて、いやしくも驕り且つ怠ることあるべからず。

4.凡そ業務は正経のものを撰みてこれに就くべし、いやしくも投機の業、又は道徳上賤むべき務に従事すべからず。

5.凡そ事を起こすには、先ずその始を慎み、既にこれに処しては、勉めて忍耐恒久の念を厚うし、みだりにこれを変更し、又はこれを放却すべからず。

6.慈善は人の貴ぶべき所のものなり、故に縁威故旧の貧困なる者は、勉めてこれを救恤すべし、唯々その方法を鑑みて、これをして独立自活の念を失わしむべからず。

7.家僕婢奴は篤実なる者を撰むべし、むしろ魯鈍なるも浮薄妄弁なる者を使用すべからず。

8.家僕婢奴を遇するには、よくこれを愛憐撫恤して、中心奉公の念を厚うせしむべし、然れども恩愛に押れて僣上怠慢の心を生ぜしむべからず。

9.冠婚葬祭の儀式及び通常招待等の事あるも、勉めて華美の風を避け、その分に隨てこれを質素にすべし。

10.凡そ同族たるものは、同族会議において決議したる事項は、瑣事たりとも、必ずこれに違背すべからず、同族に関すると一身に関するとを問わず、事の重大なるものは必ず同族会議において決議の後これを行うべし。

11.毎年一月の同族会議において、家法朗読式を行うに際し、同族中智識徳行ある年長者、この家訓を朗読し更にこれを講演して、同族は必ずこれを遵守する事を誓うべし。

 

第三則 子弟教育の方法

1.子弟の教育は同族の家道盛衰に関する所なり、故に同族の父母は最もこれを慎みて、教育の事を怠るべからず。

2.凡そ生児その幼稚の間は、身体健全にして、品行賤しからざる保姆を撰みて保育せしめ、父母たるもの常にこれを監督すべし。

3.父母たるものは居常その言行を慎み、子弟の模範たることを務め、且つ家庭の教育を厳正にして、子弟の性質を怠惰放逸ならしむべからず。

4.学校の教育は、その子弟身体の強弱を計り、寛厳其宜に従ってこれを処すべし。

5.子弟満八歳を超ゆれば、男子は保母を止めて、厳正なる監督者を付すべし。

6.凡そ子弟は幼少の時において、世間の難苦を知らしめ、独立自活の気象を発達せしむべし、且つ男子は外出の時は成るべく歩行せしめて、その身体の健康を保護すべし。

7.凡そ子弟満十歳以上に達すれば、自己の小費を弁ずるために、少額の金員を給与するを得べしといえども、よくその分に応じてその額を定め、これをして以て会計の注意を喚起せしむる事を勉むべし。

8.凡そ子弟には卑猥なる文書を読ましめ、卑猥なる事物に接せしむべからず、又芸子芸人の類を近接せしむべからず。

9.男子十三歳以上に至らば、学校休暇中に、行状正しき師友と共に各地を旅行せしむべし。

10.凡そ男子は成年に達する迄は大人と区別して、これを取扱うべし、且つその衣服は必ず綿物を用い、器具の類も勉めて質素を主とすべし。唯々女子は外出、又は来客に接する等の事ある時は、絹布を用ゆるを得。

11.男子の教育は勇壮活発にして、常に敵愾の心を存し、よく内外の学を修め、かつその理を講究して、事にありては、忠実にこれを遂ぐるの気象を養わしむべし。

12.女子の教育はその貞潔の性を養成し、優美の質を助長し、従順周密にして、よく一家の内政を修むる事に訓練せしむべし。

 

明治を支えた実業家・渋沢栄一。著作「論語とソロバン」は、今でも崇拝者をあつめる名著。道徳と商売という相反する要素を、両輪として実行することの大切さをとき、実業家として、第一国立銀行(第一勧業銀行を経て、現:みずほ銀行)の頭取に就任した他、東京ガス、東京海上火災保険、王子製紙、秩父セメント(現太平洋セメント)、帝国ホテル、秩父鉄道、京阪電気鉄道、東京証券取引所、キリンビール、サッポロビールなど、多種多様の企業の設立に関わり、その数は500以上といわれている。日本資本主義の父と呼ばれている。多くの起業に関わりながらも一族を決して経営に関わらせなかったことでも有名

 

■岩崎家

1.小事にあくせくするものは大事ならず、よろしく大事業を経営するの方針を執るべし

2.一度着手した事業は必ず成功を期せよ

3.決して投機的の事業は企てるなかれ

4.国家的観念を以て全ての事業に当たれ

5.奉国至誠の赤心は寸時も忘れるべからず

6.勤倹身を持し、慈恵人を待つべし

7.よく人柄技能を鑑別し、適材を適所に用いよ

8.部下を優遇し、事業上の利益は成るべく多く彼等に分与すべし

9.創業は大胆に、守勢には小心なれ

 

岩崎家は、俗に三井、住友とともに三大財閥家系であるが、三井、住友が300年以上の歴史を持つ旧家なのに対して、三菱は、岩崎弥太郎が幕末・明治期の動乱に便乗し政商として、一代で巨万の利益を得、その後に繋がる礎を築いたという違いがある。弥太郎は天保5年、土佐国(現在の高知県安芸市)の地下浪人(半農半士)として生まれた。土佐藩随一の学者・吉田東洋の知遇を得、その門下生である後藤象二郎らとの交際、坂本龍馬率いる海援隊での経理を担当し出世の糸口となった。創業は土佐藩の「九十九商会」。そして九十九商会を「三菱商会」(現在の日本郵船の前身)と改称し事業を展開した。現代でも三菱グループとして、三菱東京UFJ銀行、三菱商事、三菱重工業が代表される

 

■    大倉家

1.時は金なり            

2.油断するな

3.無駄をするな           

4.天物を暴殄(粗末にあつかう)するな

5.信用を重ずべし、信用なき人は首なき人と同様なりと知るべし

6.何事も魂をこめて誠心誠意をもって働け

7.遊ぶも働くも月日は流る、奮闘に興味を持つべし

8.楽隠居の考えを止め、勇気を鼓し、家のため、国のため努力するこそ人間の本分なり

9.他人が十時間働くなら、自分は十二時間働け、精神一倒何事不成の心持をもってすれば、

成功必ず疑いなし

 

中堅財閥である大倉財閥(おおくらざいばつ)の設立者。明治・大正期の実業界の雄である。越後国新発田(現新潟県新発田市)出身。鉄砲商から身を立て、明治維新後は貿易会社、建設業に転身。化学、製鉄、繊維、食品などの企業を数多く興した。戊辰戦争、台湾出兵、日清・日露と戦争軍需によって大儲けしたことから死の商人、政商と呼ばれた。軍事関係の需要は三井・三菱を凌いでほとんど大倉組が独占したという。晩年は公共事業や教育事業には惜しみなく私財を投じた。渋沢栄一らと共に、鹿鳴館、帝国ホテル、帝国劇場などを設立したことでも有名。東京経済大学の前身である大倉商業学校の創設者でもある。

 

 

■豊田綱領(豊田佐吉の金言) 

一、上下一致、至誠業務に服し、産業報国の実を挙ぐべし

一、研究と創造に心を致し、常に時流運異先んずべし

一、華美を戒め、質実剛健たれ

一、温情友愛の精神を発揮し、家庭的美風を作興すべし

一、神仏を崇拝し、報恩感謝の生活を為すべし

 

小学校を卒業した後、父伊吉のあとを継いで大工の修業を始めたが、十八歳のころ、「教育も金もない自分は、発明で社会に役立とう」と決心し、手近な機織機の改良を始め各種の発明を実現、豊田式織機会社創立後は、社業も発展し、のちにトヨタグループを生む礎になった。佐吉の父、伊吉も、二宮尊徳の高弟に師事し、腕のいい大工という一面と、地域振興と寄付に努めた実践者であった。世界一の生産台数を誇る企業になった現在も「トヨタ基本理念」の基礎として、佐吉の意思は受け継がれています。当初は確固たる形があったわけではありません。しかし関係会社の規模が拡大するにつれ、従業員に周知徹底すべく明文化する必要性が出てきました。そこで草創期の豊田利三郎、豊田喜一郎らが佐吉の遺訓としてまとめ、世に出たのが「豊田綱領」です。佐吉の6回忌に当たる19351030日のことでした

 

 

■    松下幸之助

 

産業人たるの本分に徹し 社会生活の改善と向上をはかり

世界文化の進展に寄興せんことを期す

 

パナソニック(旧社名:松下電器産業、松下電器製作所、松下電気器具製作所)を一代で築き上げた日本屈指の経営者で、経営の神様とも称された。PHP研究所を設立して倫理教育に乗り出す一方、晩年は松下政経塾を立ち上げ政治家の育成にも意を注いだ。

松下氏は、社員に対し、「松下電器は何をつくっている会社か」と尋ねられたら、「人をつくるところでございます。あわせて電気製品をつくっています」と申しおくっていたとの逸話は有名

 

 

■    宮本警部

 

伏してぞ止まん

意:精いっぱい努力した上で、いよいよ駄目だと思うときでもへたへたと座り込むのではなく、気を励ましてもう一歩前へ踏み出し、うつ伏せに倒れるまで諦めるな

 

20072619時半ごろ、駅ホームのすぐ脇にある踏切に女性(当時39歳)が侵入しているとの通報を受け、警視庁板橋警察署常盤台交番の警視庁巡査部長宮本邦彦〔殉職後二階級特進で警視庁警部〕(当時53歳)が女性を交番に保護した。しかし女性は隙を見て交番を逃げ出し、「死んでもいい、死んでやる」などと叫びながら再び踏切に侵入。宮本巡査部長がこれを救助しようとして女性をホーム下の退避スペースに押し込んだものの宮本巡査部長自身は間に合わず、当駅を通過する下り急行小川町行き(10両編成)にはねられて重体となり、同年212日に意識が戻らないまま板橋区内の病院で殉職した。

この一件を知った当時の安倍晋三内閣総理大臣から、事故殉職した宮本警部を緊急叙勲対象にするように異例の指示が警察庁へ出され、同年31日に正七位・旭日双光章授与。そして同年616日に殉職警部を讃える記念碑「誠の碑」の除幕式が、常盤台交番に隣接する駅北口前で行われた。

この事故にまつわるエピソードは事故から1年後の20082月に『伏してぞ止まん ぼく、宮本警部です(著・山口秀範)』のタイトルで絵本となり、宮本警部の母校である札幌市立幌北小学校でも授業に取り上げられた。さらに同年215日にフジテレビ系列で放送された『千の風になって ドラマスペシャル 死ぬんじゃない! 〜実録ドラマ・宮本警部が遺したもの〜』でドラマ化され、三宅裕司が宮本警部役を演じた。

殉職から2年後の20092月には、絵本による反響が大きかったことから、絵本の作者である寺子屋モデルの山口秀範によって「殉職・宮本警部が伝えたかったこと(伝記)」が出版された。

 

 

■王貞治

1 人に迷惑かけない

2 人のために尽くしなさい

3 時間厳守

4 朝ごはんを必ず食べる

5 負けた相手の事を考えなさい

6 外出する時は新しい下着を着用しなさい

7 みなさんのおかげですを忘れない

 

日本生まれ・台湾籍の元プロ野球選手、監督。読売ジャイアンツの主軸打者として積み上げた通算本塁打数868本は、メジャーリーグのハンク・アーロンの755本を抜き、世界最高本塁打数記録。その他数々の日本プロ野球記録を保持する。引退後はジャイアンツの監督、福岡ダイエーの監督をつとめた他、第1回WBCの代表監督として日本を世界一に導いた。

 

 

■石原慎太郎

明日の戦、我が身は無念とこころうべし

意:明日の戦の結果、自分の命はあると思うな、つまり、死ぬつもりでやれということ

 

石原慎太郎、政治家。東京都知事(第141516代)の他、多くの役職を歴任。政党「たちあがれ日本」応援者。小説家としても著名で、「Noといえる日本」等、著作も多い。俳優である石原裕次郎は、実の弟

 

 

■    上原由岐子

 

はい、という謙虚な心

進んでするのが「人の上」 

真似してするのが「人の中」 

言われてするのが「人の下」 

言われてせぬのが「人の屑」

 

上野 由岐子は福岡県福岡市出身のソフトボール選手(投手)。2004年アテネオリンピック銅メダリスト、2008年北京オリンピック金メダリスト。九州女子高等学校(現・福岡大学附属若葉高等学校)出身、ルネサスエレクトロニクス所属。小学校3年生からソフトボールを始め、ピッチャーとして活躍。小学校で県大会優勝、柏原中学校で全国制覇。九州女子高等学校2年の時最年少で参加した1999年世界ジュニア選手権で優勝に貢献。ジュニア離れした速球(球速は高校生時で107km、日本人最速を記録していた)でオリエンタル・エクスプレスの異名を取り、将来を期待された。2000年のシドニーオリンピック候補にも名前が挙がったが、腰椎の骨折でシドニー行きを断念。医者に普通の生活も送れなくなるかもしれないと言われる程の大怪我だったが、奇跡的な回復を遂げた。

2004年のアテネオリンピックではオリンピック史上初の完全試合を含め3勝をあげたが、銅メダルに終わる。選手村の冷房で体調を崩し、決勝トーナメントでは投げることすら出来なかった。2008820日、北京オリンピック準決勝のアメリカ戦、同日夕刻の決勝進出決定戦の豪州戦と2試合続けて登板、いずれも延長戦となり合計318球を投げ完投(準決勝は敗戦、決勝進出決定戦は勝利)した。そして翌21日のアメリカとの決勝戦も先発して7回完投勝利、2日間3試合413球を投げ抜き、球技としては1976年モントリオールオリンピックの女子バレーボール以来となる日本の金メダルに大きく貢献した。

 

 

       

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